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散歩と雑学と読書ノート


千歳川の初雪
今年の千歳の初雪は11月30日で随分と遅かった

「読書ノート」

今回の「読書ノート」では、最近入手して読みかけている本について触れてみたい。私がこれらの本を入手した動機を中心に書いてみたいと思う。本の内容をきちんと把握しないまま書こうとしているので、私の勝手な思い込みによる間違いのないように気を付けたい。

* 藤田尚志「ベルクソン 反時代的哲学」、勁草書房、2022

  平井靖史「世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門」
      青土社、2022

 藤田と平井はベルクソンの「物質と記憶」に関する国際シンポジュウムの論集1~3の共編者である。私は前回のnotoに書かせてもらった「幻覚をめぐる覚書」のなかで、この論集1に掲載されている郡司の論文を取り上げて検討してみた。

藤田と平井が相次いで出版した著書を私は迷わず購入した。それぞれ現在のベルクソンをめぐる国際的な研究を反映したうえでオリジナルな問題意識と主張が展開されているものと思ったからである。ベルクソンに関する私の関心はしばらく続きそうである。

私は知覚と幻覚が脳内機能とどのように関係するかという問題に関心がある。特に幻覚による知覚を含めて知覚が何処で成立しているのか、脳内なのか脳の外部なのかという問題が関心事の一つである。問題の設定がそもそもおかしいと思われるかもしれないが、ベルクソンは明確に脳の外部の物質が存在しているその場に知覚があると述べている。私もそのように考えてみているのだが、そうだとすると脳内機能(あるいは身体)の位置づけがなんとも難しくなる。

藤田は著書のなかで、ベルクソンが知覚や記憶が(脳の外部に)一気に身を置くと表現していることを受けて、複数の場所論を想定して理解しようとする。知覚と記憶は同じ場所を占めることも別々のこともあるとみなしてもよいだろう。藤田は特にベルクソンの記憶の場所をデリダの言い方を借りて憑在論という概念を導入して知覚の場所とはまた異なるものとして理解しようとしているようである。

一方平井は著書のなかで、ベルクソンが人間も他の生物と同じように、土台部分では、表象なしの知覚によって世界に深く接地しているのだと述べていることを指摘して、そうした知覚のあり方を記憶の分類に準じて「手続き知覚」という呼び方をするように提案している。そうだとすると表象と関連していると思われる「エピソード知覚」はどうとらえられるだろうか。

私は幻覚のみでなく通常の知覚も仮想的(バーチャル)な様相を持つものと仮定してみたが平井はその点に関しては否定的であるようだ。

平井と藤田の著書をきちんと読み込んで拙論「幻覚をめぐる覚書」を再考してみたいと私は思っている。

* トム・スコット・フィリップス「なぜヒトだけが言葉を話せるのか コ 
  ミュニケーションから探る言語の起源と進化」
、東京大学出版局、2022

  今井邦彦他「語用論のすべて 生成文法・認知言語学との関連を含め
  て」
、開拓社、2021

 私は精神科医としてずっと、コミニケションと言葉にこだわりを持ってきた。それは治療者として最も大切にするべき領域であると同時に、精神の病の本質を考えるうえでも極めて重要な領域であると考える。

精神科的にコミュニケーションと言葉の問題を考える上で、私は語用論が極めて重要な分野であると思っている。今回上記の本を手にしたのも語用論をより深く知るためである。

フィリップスは上記の本の序のなで、「言語の起源は進化の上で新しいコミュニケーション様式ー意図明示コミュニケーションとよばれるものーが生まれたことの帰結だ」というのが本書の主張であるとしている。
そのうえで、語用論が本書の中核となると述べて、さらに語用論はコンテクストにおける意味の研究をするものだとしている。

一方で今井らの著書はチョムスキー派の生成文法論から見た語用論である。

今井は「生成文法論と対峙?する認知言語論」という章で、フィリップスの著書に触れている。

今井は、フィリップスが著書のなかで、スペルベルとウィルソンの関連性理論で言う「意図明示的伝達」の出発点が「再帰的心の理論」であるという”生成文法的"言明もしていると比較的好意的に評価している。また、フィリップスがマイケル・トマセロの研究所に勤めていたことを取り上げて彼はトマセロのようなどうしようもない認知言語学者ではないとも述べている。

私は以前、マイケル・トマセロの「コミュニケーションの起源を探る」(勁草書房、2013年)を面白く読んで名著だと思っているので、今井のトマセロに対する激しい攻撃にはいささか戸惑いを感じている。トマセロとチョムスキー派は天敵のような関係といわれているが何故なのか私にはよくわからない。

* 柄谷行人「力と交換様式」、岩波書店、2022

私は柄谷行人が好きで、彼の著書を結構よく読んでいる。今回も出版を知ってすぐ注文した。

柄谷は2010年に「世界史の構造」を刊行した。そのなかで柄谷はマルクスの「資本論」を読み解いて、マルクスは晩年に社会の歴史を生産からではなく交換から考えるようになっていったと述べている。そのうえで柄谷が考える交換様式からみた社会構成体の歴史を次のように示した。
A 互酬(贈与と返礼…モースが指摘した)
B     服従と保護(略取と再配分)
C  商品交換(貨幣と商品)
D    Aの高次元での回復(資本=ネーション=国家の三位一体から抜け出す
  未来のポスト資本主義的社会、平等性と個人の独立性が成立する社会)

今回の著書「力と交換様式」はその続編である。じっくりと読んでみたい。今回は各交換様式を支える力に関して、特にDを形成するための力に関して論じているようである。

雑誌「文学界」の10月号に本書の出版を前に予告編のような形で東大で開かれた柄谷の講演会の記事が載せられている。聞き手は國分功一郎で、コメンテーターは『人新世の「資本論」』を書いた斎藤幸平である。

その時の講演で柄谷は交換様式を支える力をある種の宗教的な力、あるいは霊的な力と述べている。しかし、私には容易に理解ができないかもしれない。柄谷はその霊的な力を、先に触れた「ベルクソン 反時代的哲学」の著者である藤田と同じようにデリダの憑在論(hantologie)を持ち出して説明していることが興味深い。

さらに私が興味を感じるのは、柄谷がマルクスやカントの自然に対する関心について触れていること、また交換の前段階の概念で交換よりも広い意味あいを持つ交通の概念に関しても触れていることである。

周知のように近年の人為的な自然環境の悪化は我々に地球温暖化などの重要な課題を突き付けている。

また私はマルクス的交通の概念に以前から関心を持っていて、精神疾患の成り立ちを考える際の一つの枠組みととらえてみている。しかし考えは一向に進まず渋滞したままである。

現在、ポスト資本主義的社会を構想することが重要な課題として浮上してきていると私は思う。その中で柄谷はDという交換様式を持つ社会を構想し提案した。斎藤幸平は柄谷の講演に対するコメントのなかでDのことを「脱成長コミュニズム」と自分は呼んでいると述べている。私はこの二人に対する建設的な反論やマルクス的とはまた別の視点からの構想の出現を待ちたいと思う。またそれらを通じた論争が若い世代の選択に資することになるとよいのだがとも思っている。もちろん私は理念的な論争で社会が変化するだろうと単純に考えているわけではない。

* 國分功一郎「スピノザー読む人の肖像」、岩波新書、2022

スピノザに関しては私は以前から関心があり、本書の刊行を楽しみにしていた。私はスピノザの自然をめぐる概念に特に関心がある。「エチカ」を読み始めたが途中でわからなくなってしまい中断してしまっている。スピノザの専門家である、国分のこの本に後押しされて読み通せるとよいのだが。

 アントニオ・ザドラ、ロバート・スティックゴールド「夢を見るとき脳  
   は睡眠と夢の謎に迫る科学」
、紀伊國屋書店、2021

  カリ・ニクソン「パンデミックから何を学ぶか 子育て・仕事・コミュ
   ニティーをめぐる医療人文額」
、みすず書房、2022  

以上の2冊はそれぞれ関心のある領域の本なので購入した。現在読みかけの本が多いので、もう少し後でこれらの本をじっくり読んでみたいと思っている。

夢に関して私は睡眠の問題と絡めてずっと関心を持っている。しかしフロイト的な夢分析は残念ながら私には向いていないと自覚している。

ウイルスの疫学や免疫に関して私は学生時代から関心を持ってきた。私は精神医学を専攻する前の1年間をウイルスの疫学を中心に研究している母校の衛生学教室に研究生として在籍させていただいた。ただし、その間は大学封鎖の時期と重なっていて本格的な研究は中断されていた。それでもこの1年間は私にとってはとても貴重な時間であった。今回のコロナウイルスによるパンデミックによって、当時抱いていたウイルスの変異や免疫、そして疫学にかかわる社会的な諸問題に対する関心が私の中で再燃している。この「パンデミックから何を学ぶか」を読んで勉強し直したいと思う。

* 「現代思想」(青土社)が「総特集 中井久夫」12月臨時増刊号を出
         した。
  「思想」
(岩波書店)の12月号「北海道・アイヌモシリーセトラ
         ー・コロニアリズムの150年ー」
が特集された。


              

           ***


 

2020年 自費出版

「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より

今回は下記の論文を掲載させていただく。2回に分けて書かせていただく予定である。


語用論的視点からみた精神科的コミニケション (1)

 

はじめに

これまで私は、医師と患者のコミュニケーション過程を中心にして統合失調症を考えてきた。またそうした視点が精神科の臨床にどのように役立つかということに関心を寄せてきた。今回は、語用論という言語学的な分野の観点を取り入れてこの問題を考えてみようと思う。統合失調症だけでなく自閉症スペクトラム障害も含めて考えてみたい。もちろん私は、語用論に関してまったくの素人で、自己流に勉強してみただけであるので、不十分な理解であることは否定できない。ここでは、試論的に問題提起ができればと思う。私の知る限りそうした試みが極めて乏しいのが現状と思われる。

語用論はまだ若い学問で、語用論とは何かに関して専門家の間でもまだしっかりとした意見の一致がないようである。しかし、人間がどのようにコミュニケーションを行うのか、どのように言語を使用するのかを研究することが、語用論の中心にあることはある程度一致した見解である。

話し手が伝達を行うとき、どのような意図でどのような意味を込めて発話をおこなうのか。聞き手はその発話をどう推論し理解するのかということが語用論の課題となる。特に発話が行われる状況や環境が発話文の意味に影響を与えて、話し手と聞き手のあいだでコミュニケーション上のギャップが生じる場合に、話し手はそれをどう修正し、聞き手はそれをどう推論し理解するのか。そうしたことが語用論の課題となる。その際には発話のコンテクストの理解が重要なカギとなるだろう。

精神科医療では、しばしば、このコンテクストの捉え方を含めて、伝達過程や言語の使用が病的に障害されてしまう患者に出会うことがある。それをどう理解し訂正できるかが重要な臨床的課題となることがある。語用論はあくまでも正常な会話の運用のための理論で、その病的な逸脱のための理論を想定していない。ここでは、それを読み取って病的な場合はどうだろうかと考えてみなければならない。以下では、語用論で論じられているいくつかの課題を私なりの理解にもとづいて取り上げ、精神科的コミュニケーションの病的な問題点に結びつける試みをしてみたい。

語用論と精神科的コミュニケーションに関して

目次
 1、言語行為論
 2、グライスの「意味と会話」に関する理論
 3、関連性理論
 4、ポライトネス理論
 5,直示参照とジェスチャー

1.言語行為論(ジョン・オースティン 1911~1960)(サースが展開)
 オースティンは1955年にハーバード大学で行った12回のウィリアム・ジェームズ講義で、日常的な発話を、始めは事実を陳述する為の「確認的発話」と行為をする為の「遂行的発話」に区別した。その後この両者の区別を放棄している。そのうえで、何かを言うことは、何かを行うことでありうるとして、言語行為を記述する枠組みを提案する。そして「言語と行為」という著書をだした。これは語用論の出発点にもなった「言語行為論」の誕生を告げるものであった。

オースティンは発話行為を三層構造に分類して論じる。発語行為、発語内行為(発語内の力)、発語媒介行為の三種類である。発語行為は音声行為(ある特定の音声を発する行為)、用語行為(ある特定の文法構造で複数の単語を発話する行為)、意味行為(複数の単語で特定の意味を伝える行為)に分けられる。オースティンの言語行為論のなかで最も影響力が大きかったのは、次の発語内行為の中の、発話に伴う発語内の力という考え方である。それは、言語的意味や真理条件的意味とは別に考えられるものであり、語用論的に推論される意味の力である。

オースティンは発話の内部で力と意味を区別したいと考え、その力を次の5つに分類している。
1)判定的(Verdictives)―判定や評決を行う。審判、仲裁、推定、査定など
     ジョン・ロジャーズ・サーㇽは宣言型(declartive)としている。
2)行使的(Exercitives)―力、権利、影響力を行使すること。命令する、警告する、助言する、指名するなど
     サールは行為指示型(directive)としている
3)拘束的(Commisives)―話し手が一連の行為をするように拘束するもの。約束など
     サールはこのまま使用
4)態度的(Behabitives)―態度や社会的振る舞い。謝罪、祝福、お悔やみ、挑戦など
     サールは感情表現型(expressive)
5)説明的(Expositives)―発話の流れの説明、情報を与える。言明する、返答するなど
     サールは表示型(representative)

言語行為論に関しては多くの議論が積み重ねられている。中でも特に重要な論者はサールで、彼が変更した発語の力の名称のみを上に記しておいた。ところで、オースティンはこの発語内の力を明示する動詞、あるいは発話の遂行においてどんな発語内行為を行っているのかを明示する動詞を選り分ける必要があるとして、それは十の三乗に及ぶ遂行動詞のリストになると述べている。
発話における発語行為と発語内行為を遂行することはさらにもう一つの行為を遂行することになる。それを、オースティンは発語媒介行為と名付けた。なにかを言うことは、しばしば聞き手や話し手に、もしくは他の人々の感情や思考や行動に一定の結果的効果を生み出すものである。むしろそうした効果を生み出そうと意図して発話は行われることがある。この種の発語行為の遂行を、発話媒介行為の遂行と呼ぶことにするとオースティンはいう。
                 
不十分な理解だが以上のような「言語行為論」の理解にもとづいて精神症状を眺めてみよう。
先に述べたように、発語行為をオースティンは、音声行為、用語行為、意味行為の三種に分類しているが、ほぼこの順番に発話を聞き取る患者がいる。言語行為に若干の問題を抱える、高機能自閉症者である。その点を指摘している村上靖彦著「自閉症の現象学」より、引用しておきたい。

「高機能自閉症者の一部には、頻繁に聞き返す、あるいは質問への返答に時間がかかる人がいる。話し言葉の聞き取りに何らかの困難を抱えているように見受けられる。たとえば、同じことを三度聴くことで初めて意味が理解できる人がいる。『一回目は音がする、二回目は声がする。三回目で何を言っているのがわかる』のだそうだ。」

私もそうした患者に二人であっている。問いかけになかなか返事が返ってこないのだが、統合失調症者の途絶とはやや雰囲気が異なるため、村上の記述を思い出してこういう人もいるけれどもどうだろうと尋ねたところ二人ともまったく同じ体験をしているのだと深くうなずいてくれた。定型発達者には発話行為の三種の作動はそのつど統合して理解されているのだが、自閉症者では、はじめに音声として、ついで言葉を話す声として、その言葉の意味の表現として順番に間をあけて理解されることがあるようだ。

発語内の力や発語媒介行為に関しては、統合失調症論との関連で花村や小林等が触れている。小林は「統合失調症における『力』の作用を病的な『発話内の力』と定式化することもあながち不当ではない」としたうえで「命令してくる幻聴に従ってしまう患者をみればわかるように、そこには病的な『発語内の力』が働いているといわざるをえない」さらに「その病的な『発語内の力』がどこから来るのかといえば、それは言語からというほかない。主体にとって異質で、本来的に他性の次元にある言語であればこそ、異様な力を主体に及ぼすのである。むしろ健康な主体において言語がいかに無害化されているのかが問われるべきことなのであろう」と述べている。

ここではこの小林の的確な指摘を踏まえながら、筆者なりに「幻聴」や「させられ体験」と発語媒介行為の関連に少し触れておきたい。幻聴の声は大部分が他者性をおびていて、語りかけてくるものである。内容もしばしば、命令や非難や批評などで、ある行為を行うように促すものであったり、被害的な感情を誘うものである。発話をする人物が不在であるが声を聴く患者は当然ながら明らかに発語行為と認識する。そして、声の性状より発語者を想像し、しばしば妄想する。そう促すのは小林の指摘通り言語そのものの性質であり発語内の力である。患者は幻聴の声が持つ発語内の力に促されて、発語媒介行為に及ぶことがある。「死ね」という命令に抗しきれずに自殺を試みたり、声に促されて誰かを危害を加えたり、あるいは感情を深く混乱されたり、被害的なあるいは誇大的な妄想を抱いたりする。幻聴の声に影響された発語媒介行為は「させられ体験」とも呼ばれる。この発語媒介行為が発語内の力が強ければ強いほど生じやすいのは幻聴の場合も当てはまる。残念なことに、それを無視しても大丈夫なのだという医師の発語よりしばしば幻聴の力のほうが優ってしまう。

発語媒介行為に影響を与える発語内の力を考えたときに、オースティンが分類した五種類の発語の内容も重要だが、それ以外の発語にまつわる要素もまた重要な意味を持つ。たとえば患者の名前をよぶ幻聴の場合を考えてみよう。名前だけならばあまり、極端な影響もなそうに思うが、それがほとんど一日連続して聞こえたとしたらどうだろう、また非常に強い口調で悪意に満ちた呼び方だとしたらどうであろうか。私が診ていた、ある患者はそのような幻聴に悩まされて、激しく混乱し、被害的な妄想状態を呈してなかなか怒りがおさまらなかった。つまり、発話内の力というのはその内容だけではなく、声の調子や強度などのいわゆるノンバーバルな影響も加味されたものであるということである。

ところで、幻聴に出現しやすい遂行動詞があり、それが妄想状態の源泉でもあると考えられる。その妄想を促す遂行動詞の数はもちろん十の三乗よりはるかに少ないものであるということを蛇足ながら書き加えておきたい。

幻聴の影響で「させられ体験」の生じることを先に述べたが、幻聴とは直接関係なく生じてくるのが「させられ体験」としての本来のあり方である。ここで、ある患者のそうした訴えを見ておきたい。

「頭にことばを入れられて勝手に考えさせられる。昔の事を言わされる、声を出して言うので独りごとになってしまう。自分に言わせている人が見えないけれど、そばで聞いていて、聞き終わると帰っていく。宗教関係の人たちがグルになって、身体をおかしくされる、頭を痛くさせられたり、重くさせられたり、眠れなくされる。左脳をつつかれて眠れなくされることもある。また涙目にさせられたり、鼻水を出させられたりもする。」


 ここでの、病的な独語という発話行為に至る状況は特に「言語の力」を考えさせられる事態である。幻聴が他者化した声による発話行為の受容であるとすると、この場合は、他者化した思考過程の結果としての発話行為の強制という形態をとっている、それぞれ異常な病的な形式での発話行為であるが、患者はそれを受け入れざるを得なくされているのである。

「発語内の力」という言語の持つ力を媒介に、妄想やさせられ体験や病的な独語などは近縁の症状として出現することがあるといってもよいだろう。
 
2.グライスの「意味と会話」に関する理論(グライス 1913~1988)
グライスはオースティンの主宰するサタデー・モーニングズというグループの一員であった。彼はオースティンやサールと同様に、いかに話者が特定のコンテクストのもとで発話に意味を与えるかに関心を持った。コミュニケーションの過程における意味の研究で、グライスは意味の伝達が推論的で意図的なものであるとしている。話し手は言葉や行動で、意味と意図を聞き手に伝える、聴き手は話し手がある特定のコンテクストにおいて、ある特定のやりかたで、ある特定の語や句を発話したという事実からその意味や意図を推論するのである。

次にグライスは会話の研究で、会話の協調の原理と会話の格率という枠組みを定め、含意(implicature)という用語を導入する。これは言われたことそのものでなく、話し手によって暗に意味されたことをさす。これは会話での意味が、言語学的な意味論レベルのものではなく、語用論的なレベルのものであるということである。

グライスは会話の格率を次のように定めている。

量の格率(提供されるべき情報の量に関連)
 1.(言葉のやり取りの当面の目的のために)要求に見合うだけの情報を与えるような
を発言を行いなさい。
 2.要求されている以上の情報を与えるような発言を行ってはならない。(関係の格率との関連で意味がある)
質の格率(真なる発言を行うように)
 1.偽だと思うことを言ってはならない。
 2.十分な証拠のないことを言ってはならない。
関係の格率
関連性のあることを言いなさい。
様態の格率(わかりやすい言い方をしなさい)
 1.暖味な言い方をしてはならない。
 2.多義的な言い方をしてはならない。
 3.簡潔な言い方をしなさい(余計な言葉を使ってはならい)。
 4.整然とした言い方をしなさい。
 
会話における協調の原理や会話の格率や含意との関係は、次のようにまとめられている。話し手の言ったことが格率に従っていない(または従っていないように思える)場合であっても、聞き手は話し手が含意を伝えることによって、協調的であろうとしていると仮定していい。つまり、話し手が、言われたこととは異なり、言われこと以上のことである含意を伝えようとしていると考えていいのである。聞き手がこのように考えることができると分かっているので、話し手は、含意を伝えるという合理的な意図を持った発語を行うことができるのである。
                  
精神医学的面接の場面ではしばしば非協調的な会話となってしまい、会話が不成立となることがある。患者の病的な状態のためであることが多いが、時には医師の側にその責任のある場合もある。協調的に会話を進めるうえでの医師の役割は極めて重要である。

私は、特にグライスが述べる会話の格率は精神科医にとっては座右の銘ともすべき貴重な見識と思う。

含意に関しては患者の不確かな発言やあるいは沈黙に対応する際に、精神科医は常にその含意を推論しながら患者とやり取りしていることを強調しておきたい。この精神科医としての体験や知識を総動員して、患者が言いたいことを補って会話を進行する行為は極めて治療的である。患者は自らの体験にあるまとまりを付与され、それを受け入れて振り返ってみることで病からの回復のきっかけをつかむ契機となりうる。

精神科的な診療場面では、患者の病識がないことや、妄想に支配されていることで診察場面というコンテクストが共有されないことが起こりうる。そのために協調的な会話が困難となることが時に生じてしまう。そういう場合にはメタコミュニケーションによる修正が必要だが、必ずしもそれがうまくいくわけではない。時には本来なら避けなければいけない言い合いになってしまうことがある。

コンテクストや推論の把握に問題があって生じた医師と患者間のすれ違った発言をいくつかあげおきたい。これはおもに医師の質問が診察場面というコンテクストを前提に置きすぎて生じたことで、医師の側の責任が重い。

*初診の患者に「今日は何で来られました」と聞いたところ、患者はバスで
  きましたと答えた。(医師は交通手段でなく、受診の目的を、見てもら
  いたいと思う悩みを聞こうとしていた)
*「私の顔をみていくつに見えます」との質問に、一つです。(医師は年齢 
  を聞いていた)
*「食事はとれますか」と医師が質問、とれなかったら、死ぬだろう、あん
  た馬鹿でないか。と患者が言う。(医師はもちろん患者の現在の食欲
  がどうかを聞いている)
*「今困っていることは」金がないことです。(冗談でそう返されることは 
  あるが、診察場面で真面目にそう言われると、医師としては困惑してし
  まう)

コンテクストや推論の問題に関しては次の関連性理論のところでも触れてみたいと思っている。
                               つづく




 

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