【最終回】エルサレムの「あの日」から…〜トーマス・クックシリーズ ⑱
問題です。
スイスとエジプト、そしてパレスチナ。
この三カ国の共通点は分かりますか?
答えです。
トーマス・クックです。トーマス・クック旅行社は世界中にツアーを出し、世界中に支店も持ちましたが、クック社の恩恵にもっとも授かったのはスイスとエジプト、パレスチナです。
理由はスイス(ハイキング)、エジプト(クルージング)、パレスチナ(古都散策ツアー)など、トーマス・クック進出前までは、一切観光業が組織化された形で存在していませんでした。
クック親子がそれらの地でがらりと根底から改革を起こし、大発展させたからです。
父親のトーマスは理想主義者で全く儲けを考えず、チャレンジすることとその国に何か貢献することにやりがいを見い出し、世界最古のパッケージツアーを誕生させました。
1870年以降、会社の中心となった息子のジョンは父親と真逆のタイプで、富裕層の顧客の獲得に力を注ごうと、そのためにロンドンの一等地に本社を構え、鉄道の時刻表やガイドブックのようなものを出版。
1874 年には主にジョンのアイディアで、トラベラーズ チェックの初期の形式である回覧紙幣も導入しました。
1899年、ジョンが亡くなると、彼の息子たちが会社を引き継ぎ、彼らは自動車やバスによる観光を導入しました。
ロンドン、パリ、ベルリンの観光客向けに、オープントップ型バスで市内ツアーを行うという、観光バススタイルです。
1919 年に入ると、この年のイースターにトーマス・クックはロンドンからパリ、またはロンドンからブリュッセルへの旅行のチケットを販売する代理店として営業を始めました。
同時期、トーマス・クック旅行社は航空ツアーを一般に提販売開始し、同時に最初のトーマス クック英国バス ツアー(つまり「はとバスツアー」の元祖)を企画しました。
その翌年の1920年には、上海都市のガイドブックの出版。1922 年にケープからカイロへの最初のサファリツアーを発表し、1920 年代初頭までに自動車ツアーを売り出しました。
あるジャーナリストの言葉を借りれば
「全世界の人間がトーマス・クックの世話になり、旅をしています。皇帝、女王、王位継承者から聖職者、軍人、そして最も地味な八百屋に至るまで、誰も彼もトーマス・クック社の手配で世界中を移動しました」
エルサレムに話を絡めたトーマス・クックシリーズ最終回です、宜しくお願いします。
エルサレムが征服された日
1917年。
イギリスがエルサレムを征服したその日、エルサレムの人々は浮かれまくりました。
なぜならイギリスが、オスマン帝国トルコ軍が撤退し、
「(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル、そしてトルコの一部を含んだ)新しいアラブの連合王国が誕生する」
が実現化に迫ったからです。
エルサレム中が英軍兵士だらけになり、 一番、キャッキャ騒いだのはユダヤの若い娘たちでした。彼女たちは英語で英兵に話しかけ、仲良く談笑をしていました。
一方、エルサレムの青年たちだけが内心ブルブル震えていました。
というのは彼らは、自分たちがオスマン帝国軍に入隊していた経験があることに怯えていたのです。
「イギリス軍が僕たちを捕虜として、どこかへ連行するのではないか?」
そこで、慌ててオスマン帝国軍の軍服を捨てたり隠したりし、どうにか捕まらないように必死でした。
翌年の1918年。
スルタン・ハミド2世が亡くなりました。事実上、オスマン帝国最後の皇帝となりました。
その前のハミドに対する革命の発端はこうでした。
イギリス大使のジェラルド・ラウザーのお抱え「ドラゴマン」のトルコ人青年が、若者同志らとギリシャのサロニカ (当時はオスマン帝国統治下) で、最初のクーデターを起こしました。
サロニカの住民の半数以上がユダヤ人であり、ここにはユダヤ人が設立した大きなフリーメーソンのロッジがありました。ここがそのクーデターの後ろ盾になっていました(と言われています)。
ハミドは廃位させられた後、劣悪な環境に置かれてしまい、すっかり体調を悪くしました。
最終的に「親友」とも言える、ドイツのヴィルヘルム2世の手引きで、トルコのドイツ大使館経由でもっと環境のよい宮殿に移動させてもらえましたが、健康を取り戻すことはできず、命を落としました。享年75歳でした。
その2年後。
1920年4月4日日曜日から4月7日水曜日までの間に、エルサレム旧市街およびその周辺の英軍占領地域にて、
「アラブ人がユダヤ人に対して行った初めての大規模なデモ(暴動)」が勃発しました。
背景には、悲願だったアラブ連合王国建国が樹立されたものの、この直前にフランスが干渉してきた件です。なお、この王国は 1920 年 3 月 8 日から 7 月 25 日までの 4 か月あまりの間、「王国」として存在しました。
暴動が勃発したのは、復活祭の週にキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の祭りがすべて重なっている日でした。
復活祭前の金曜日の前の時点で、
「近くの村やエルサレムの中」からイスラム教徒の巡礼者が集まり、何らかの「トラブル」が起きると、英軍は予想していました。
だから、対立する宗派間の衝突に対策を立てておこうという意識があったものの、アレンビー将軍は「聖なる日に軍隊の出動はいかなるものか」と躊躇しました。
結局、大きなイギリス軍隊の代わりに、たった8名の警官とまったく未経験のアマチュア警備員188名だけが配置されました。
ムスリムの巡礼者が集まりました。
イスラム教の指導者たちは案の定、シオニストやバルフォア宣言についての非難を口にしました。すると途端に空気が一変し、扇動的な雰囲気に包まれ、引き金は一つの爆発音でした。
その大きな爆発音が合図となり、彼らはユダヤ人の家や商店が襲い、収拾がつかない状態になり、その日の正午にはイギリス軍も投入されました。
英軍の初動が間違った故です。最初は彼らも話し合いを求めたものの、英軍は全く相手にせず、その上ムスリムの代表らを追放しようとしました。
もう一つ失敗だったのは、この時の現場のロナルド・ストーズ総指揮官が経験不足だったことでした。
エルサレムのような複雑で入り込んだ車が抜けられない細い路地や、高さの低い門などが多い古い街では、暴動が大きくなると逃げ道が無くなり、負傷者と死亡者増加にもつながりやすいということや、
こういった古都では、一体どのように鎮圧させるのが正しいのかということを、そのイギリス人将校は経験と知識を持ち合わせていませんでした。
最終的にユダヤ人47人、アラブ人48人が死亡し、さらにユダヤ人146人、アラブ人73人が負傷しました。(*人数は出典元により全然異なります)
アラブ人の死者のほとんどは、暴動を鎮圧しようとした英国軍によって殺されているのにも関わらず、当時のイギリスの記録を見ると、全面的にアラブ人が加害者とされています。
もう一つ、エルサレムの大きなデモ騒動の責任を持って、ムーサ・アル・フセイニがエルサレム市長を辞任させられることになりました。
ムーサは前のフセイン・アル・フセイニ市長(白旗を掲げ、降伏状をイギリスに提出した市長)の弟で、オスマン帝国大学を三番の成績で卒業している優等生であり、強い反シオニスト主義でした。
アル・フセイニ家とはエルサレム一の名門です。
彼らの先祖はイスラム教開祖のムハンマドと血縁関係にあり(と言われている)、偉大なアラブの大指導者フセイン・ビン・アリ・アル・ハシミとも家系図が繋がってもいます。(*諸説あり)
はっきり断言できるのは、アル・フセイン家からは13人ものエルサレム市長を輩出しており、成功を収めた実業家たちの名も連ねていることです。
この一族は非常に早い段階でシオニストに危機感を抱き、宗主国のオスマン帝国政府に掛け合い、極力彼らを移住させないようにと素早く手を打っていました。
貧しい人々が手放す土地や村は、アル・フセイニ家が買うようにもしており、シオニストに土地や村を売りつけたことが発覚すると、速やかにその者に厳重処罰を下しました。
エルサレム市長を辞めさせられたムーサ・アル・フセインは反シオニスト活動を続けていき、1934年のデモに参加した時、イギリス人兵士に撲殺されました。(正確には、息を引き取ったのは救助された後です)
墓はエルサレムのオリーブの山にある、兄のフセイン・アル・フセイニの墓の横に置かれましたが、その後、この2つの墓がどうなったか分かりません。
1948年以前のアラブ人の痕跡の多くは消されたので、もしかしたらこの2つの墓もその後、片付けられたのかもしれません。
アル・フセイニ家の子孫たちも、反シオニスト活動をしていきましたが、その多くはその活動の最中に死んでいきました。
そして、エルサレムのアル・フセイニ家の邸宅はシオニストによって公園に変わったり、シナゴーグに変わったりしていったといいます。(*少なくとも、アル・フセイニ家の形跡は全て消されている模様です)
ヴィルヘルム「ドイツが君主制に戻ったら、私の遺体を祖国に戻してほしい」
オスマン帝国スルタンのハミドが死んだ頃、かつて親しくしていたウィルヘルム皇帝も足元がぐらつきました。 第一次大戦でドイツ帝国は敗退し、この国でも革命の波が訪れたからです。
以前も書きましたが、ヴィルヘルムは生まれた時、イギリス人医師が帝王切開をせず、無理やりひっぱり出したため、肩の神経が損傷されて母親のお腹から出てきました。
そのため、生まれつき左腕は事実上麻痺しており、右腕に比べて成長が遅れ、生涯を通じて軽度の障害を抱えていました。いわゆるエレブ麻痺です。
だから幼い頃から劣等感を抱えており、乗馬を習得するのにも人の数倍の努力が必要とし、屠殺されたばかりのウサギを腕に巻き付ける治療や(←どういう意味だったのか、よく分かりませんでした)、
電気療法治療、過酷なマッサージと極度に厳しい運動、姿勢を正しく保つための金属製の拘束具に至るまで、「虐待療法」をイギリス人医師らに受けさせられ続けました。まるでゴシックホラー小説のようです。
イギリス人の母親に何度も泣いてすがり、救いを求めました。
しかし母親はあまり母性愛がなかった?むしろ母親は片腕に障害を持つヴィルヘルムを恥じており、さらに「知的障害もある」と決めつけ、息子を疎んじていました。
1888年、イギリス人医師が父親カイザー・フリードリヒの咽頭がんの治療に失敗すると、
「イギリス人医師が父上を殺した」
とイギリス嫌いは最高潮に達しました。
「イギリス人医師が私の腕を不自由にして、挙げ句に私の父を殺した。そし、イギリス人の母親に私は憎まれていた」
1898年、ヴィルヘルムは聖地ツアーへ出かけました。もともと旅行好きというのもあったのですが、この時、巡礼ツアーの手配、護衛および案内をトーマス・クック社に依頼しました。
5万ポンドの予算で依頼された旅行社のジョン・クックは(後で、大幅な追加費用を請求しています)見事カイザー(ドイツ皇帝)のツアーを成功させたのですが、残念なことに、ジョンは彼はこの時、赤癬にかかり、翌年亡くなりました。65歳でした。
玉座から引きずり下ろされたヴィルヘルムは、オランダへ亡命しましが、ドイツの自分の城から59台の馬車分の私物を運び去り、十分な財産を持ち逃げしました。
それにです。現在のポーランドの土地に陶器工場を所有していたので、その先、収入も途絶えることがなく、財政的に安定していました。
その後、死ぬまでオランダに身を寄せましたが、なぜオランダだったのか。
オランダは中立国であり、1581年の建国以来、宗教と人種に関係なく、亡命する人を受け入れてきており、1918年の時にはすでにオランダの亡命政策はよく知られていました。
それにヴィルヘルミナ2世の姪はヴィルヘルミナ・オランダ王妃で、もともと二人は良好な関係にありました。本当にヨーロッパ中各国の王族に親戚がいることよ!
ユダヤ人大虐殺を止めたドイツ人将校
1922 年、ファルケンハインが腎臓病で亡くなりました。かつて、オスマン帝国によるユダヤ人大虐殺計画を阻止したドイツ将軍です。
ファルケンハインの死後、娘エリカは、若いドイツ人将校ヘニング・フォン・トレスコウと結婚しました。
しかしエリカの夫は、アドルフ・ヒトラーに対するクーデターと暗殺未遂の「ヴァルキリー作戦」に関与し、1944 年 7 月に自殺を遂げました。
総統の命を狙った身内として、残されたエリカと子供たちはナチスに逮捕され、ようやく釈放されたのは第二次大戦後。
1974年に亡くなるまで彼女は教師として働き、父親のことも夫のことも多くは決して語ることがなかったといいます。
それにしても、ああなんて皮肉中の皮肉。
パレスチナのユダヤ人が第一次世界大戦中に生き残れたのは、ドイツ軍将校のおかげであったという事実。
そして、そのドイツ軍人(ファルケンハイン)が救ったユダヤ人たちが、イスラエル国家の基礎を築いたという事実です。
1917年にエルサレムを征服したイギリスのエドモンド・アレンビー将軍ですが、この後ダマスカスとアレッポを占領し、シリアにおけるオスマン帝国の権力を終わらせました。
1919年から1925年の期間は、エジプト高等弁務官(イギリスが植民地に置いた総責任者)として、カイロに駐在。
1922年に、その後30年続くことになるエジプト王国が誕生する瞬間も見届けました。英国統治下のパレスチナとエジプトに深く関わった男でした。
一気にフリーメイソンのユダヤ人がパレスチナに入植
パレスチナではユダヤ人寄りの法律改正がなされ、多くの村が破壊され、住宅取り壊し、入植地の拡大、土地没収、アラブ人雇用を含む貴重な資源が失われていくという事態に陥りました。
ところがです。そんな状況であったにも関わらず、アラブ人たちはいまだにユダヤ人に土地を売却していました。
その背景には、パレスチナ経済が非常に落ち込んでいる時代だったせいです。
小麦を積んだ船が収穫時期に港に入港したため、小麦の価格が下落しました。翌年も同じことが再び起こり、前年に土地を抵当に入れていた農民は土地を売却することを余儀なくされたのです。
オスマン帝国時代、村民は税金を安くするために、土地を他人の名前で登録したり、面積を過小評価したりするなどの戦術をとっていたということをすでに書きましたが、これも裏目に出ていました。
すなわち村人の土地が、ますますユダヤ人の手に渡りやすくなっていたのです。
同時に、一気に大勢のイギリス系ユダヤ人が入って来て、もちろんイギリスからのユダヤ人のフリメーソンも増えていきました。
19世紀、パレスチナには、英語か仏語の運営のロッジのみが数えるほどしかありませんでしたが、1930年になると、パレスチナのフリーメイソンロッジは、中東においてエジプトに次いで二番目の規模となり、そのうち85%がユダヤ人のフリーメイソンメンバーで占められました。
1936年、グランド・ナショナル・エジプト・フリーメーソン・ロッジは、パレスチナ人にこう呼びかけました。
「パレスチナの人々よ、ユダヤ人はあなたの兄弟でありいとこであることを覚えておいてください。ユダヤ人は西側で成功し、そのお金であなたたちに利益をもたらすことを望んでいます。
アラブ人とヘブライ人はアブラハムの木の二本の枝であり、彼らの先祖はイサク(アラビア語ではアイザック)とイシュマエル(アラビア語ではイスマイール)です。
お互いに手を差し伸べ合い、さまざまな方法から多くの利益を分かち合い協力し合いましょう。神の御心による善と祝福のために」
つまり、エジプトのフリーメイソンはイスラエル建国を歓迎しており、パレスチナのアラブ人にそれを受け入れるのを推奨していたということになります。
ナチス・ドイツからは大勢のユダヤ人がパレスチナに流出していると、すでに書きましたが、ナチスはフリーメイソンを禁じていたので、ドイツからもユダヤ系フリーメイソンメンバーが大勢逃げて来てきました。
そうして、エルサレムに初めてのドイツ語ロッジが設立しました。
20世紀前半におけるエルサレムのフリーメーソンメンバーの顔ぶれですが、デビッド・アブラフィア(セファラディ系ユダヤ人指導者)、ダニエル・オースター(シオニスト将軍政治家、エルサレム市長)、イェシャヤ家(ユダヤ人実業家)、ST・ロック(カトリックの実業家)などでした。
ちなみにアーサー・バルフォア卿や高等弁務官ハーバート・サミュエルのような、委任統治者に影響力を持つイギリス人もフリーメーソンメンバーだったと言われています。
日本とユダヤ
同じ1930年代、日本では河豚(フグ)計画が持ち上がりました。
発起人は安江陸軍大佐(ロシア語を話しました)、犬養海軍大佐(フランス語を話しました)です。
安江仙弘陸軍大佐はユダヤ人問題を学ぶために、1926年にドイツとパレスチナへ視察へ行い、親ユダヤ派になっています。
彼らはユダヤ人をノービザで上海に入国させることを続け(ユダヤ人がビザなしで入れるのは、世界で上海だけでした)、ドイツによる「上海のユダヤ人を絶滅させよ」の命令を東條英機は背き、安江や犬養に上海で巨大なユダヤ人自治区を作らせようとしました。
外務大臣松岡洋右(カトリック教徒)もユダヤ人実業家のグループとの会話の中で、このように述べています。
「自分はヒトラーとの同盟の責任者だが、私は日本で反ユダヤ主義政策を実施すると約束したことはない。これは私だけの意見ではなく日本の意見であり、それについて永遠に宣言することに何の躊躇もありません」
貴重な証言です:
”A級犯罪者はユダヤ人を救った英雄だった:ラビ・マービン・トケイヤーへのインタビュー”
第二次大戦が始まり、1940年にイタリアが参戦布告すると彼らはイギリス軍の駐在するパレスチナに激しく空爆を仕掛けます。
日本も参戦すると、もはやユダヤ人を日本国内にとどめておけず、上海の小東京(のちの虹口区)にユダヤ人ゲトーを設け、そこに彼らを封じ込めました。
リタ・シルバーマン(元米軍人)によると
「将来の財務長官マイケル・ブルメンソール(カーター米大統領に仕えた人物)も上海の小東京ユダヤ人ゲトーにおりました。
ブルメンソールの証言いわく、『上海の小東京ゲトーでは我々ユダヤ人の待遇が良かった。我々の生活水準は満州の平均的日本人の生活とは、何も変わらなかった』とのことです」
(*ただし、様々な証言を見ると、その正反対の証言もあります)
しかし、ドイツは日本政府に上海のユダヤ人を皆殺しにするように命令(要請)しました。ところが東條英機はこの時もそれを拒否し、ユダヤ人を庇いました。
ユダヤ人ネットワークの持つ巨大な資金をよく知っていたので、なおさら彼らを救おうと考えたのかもしれません。
河豚計画を思いついた安江陸軍大佐は戦後も、身の危険を顧みず大連に残り、ユダヤ人たちに支援を続けましたが結局、ロシア軍に捕まり1950年、シベリアで死去。
その後、ハルビンのユダヤ人たちが、「シオニズムに協力した人々の名簿」こと「ゴールデンブック」に安江の名前を登録させました。
一方、犬養海軍大佐は75歳まで生き、彼の遺品の一部がイスラエルのホロコースト博物館に展示されました。
イスラエルの日本博物館の新館は笹川家が資金を出し完成させています。
Cafe de Parisとイスラエル建国(1948年)
2011年。
エルサレムに新たに生まれ変わったCafe de Parisが開店し、話題を呼びました。
Cafe de Parisへ行くと、秋の夜の寒さに身を包みながら、洗練されたユダヤ人たちがそこの店の外のテーブルに座り、ビール、ワイン、ハウスカクテルのグラスと、燻製魚、ソーセージ、野菜のピクルスの小皿を注文しています。
そのカフェの店前には、有名なマハネ・イェフダ市場(シュク)の商人たちが色艶の良い茄子やオレンジ、新鮮なハーブの束の袋を抱きかかえ歩いています。
市場は近所の大型スーパーやショッピングモールの登場のせいで、客を奪われ長いこと、不景気が続いていました。
しかし、市場に賑やかな屋台や立ち飲みバー、カフェ、アンテナショップ、エスプレッソバー、デザインショップなどを誕生させると、次第にまだ人々が戻り活気がでてきたので、Cafe de Paris前の市場を出入りする大勢の人々通るようになっていました。
こういう工夫とアイディアがああ、まさにユダヤ人だなあ、凄いなあと感心します。
Cafe de Parisの誕生はこれよりはるか昔の、英国委任統治時代が終わりに遡ります。
当初、ここは英国人士官クラブで、一階ではお酒を飲んでギャンブルを楽しみ、石造りの階段を登っていくと屋上があり、そこではユダヤ人の若い娘たちとタンゴを踊りました。
しかし、実はこの建物の4階と5階は売春宿になっており、ユダヤの若い女性たちがそこでイギリス兵の相手をしていました。
1940年にもなると、ユダヤ側がパレスチナにおける支配権をイギリスから奪おうとしており、イギリス軍とユダヤの間では緊迫感がありました。
そのため、スパイ活動を目的として、英軍人に近づくユダヤ人女性たちが大勢いました。
これはユダヤ庁が18歳から22歳の若いユダヤ人の女性たちに、ここの売春宿に限らず、スパイ活動を広範囲に渡って行うよう、命令を下していたからです。全員、それぞれコードネームも持っていました。
ところがです。情報を得ようというもくろみがあって近づいたものの、そこは若い男女です。中には本物のロマンスも生まれることもあり、実際に数百ものイギリス人兵士とユダヤ女性の結婚が誕生しました。
これに慌てたユダヤ庁では
「イギリス人に嫁ぎ、渡英したら苦労しか待っていない」
と新聞に書かせまくりました。
余談ですが、もっとも有名な「ロマンス」はパレスチナ駐留イギリス軍司令官エヴリン・バーカー将軍と、著名なアラブ人の社交界の妻ケイティ・アントニウスとの間の関係でした。
既婚者でもあったバーカー将軍は、アラブ人の人妻ケイティに熱烈な内容を書き綴った恋文の公式便箋100通近くも、自分の運転手によって手渡していました。しかも、恋文にはずいぶんと軍の機密の詳細まで書いていました。
1948年にイギリス軍がエルサレムから撤退した後、Cafe de Paris は中国製の安価な電化製品を販売する中国人の店になり、その後スタイリッシュでクールなカフェバーに生まれ変わりました。(*今現在はどうなっているのか不明です)
さて、1948年までに、パレスチナ人の人口の半分以上がユダヤ人となり、土地の半分以上が彼らの所有物となり、同年、イスラエルが建国しました。
日本ですが、1948年当時、イスラエル建国支持していません。日本がまだ独立国ではなく、国連に加盟していないからです。
だけども、1952年に独立すると、イスラエルとエジプト共和国どちらへの支持表明も出しました。
その後のスエズ動乱(第二次中東戦争)と第三次中東戦争では、日本はアラブ寄りの立場を表明し、金融政策で大いにエジプトを助けました。
スエズ運河を持つエジプトを中東の窓口として見なし、重要と考えたからです。
日本政府は、1978年にはPLOの事務所を東京に設立することを許可しました。カトリック信者の大平首相は、パレスチナを支持する声明を出しています。その後わりとすぐに、心臓で急死しましたが。
イスラエルが建国すると、フリーメーソン組織は アラブ諸国のすべてのメンバーにイスラエル建国を支援するよう指示しました。
一方、フリーメイソンのアラビア語ロッジは次々に自主的に閉鎖をし、エジプトなどに流れました。
1953年になると、イスラエルにはフリーメイソンのヘブライ語のロッジが19つ、ドイツ語ロッジが5、英語ロッジが4、ルーマニア語ロッジ1、アラビア語ロッジが1つとなりました。
1974年にはヘブライ語ロッジが64に増え、そして現在パレスチナ(イスラエル)には80箇所にロッジが存在していると言われています。
イスラエルのロッジの言語はヘブライ語の他、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語、トルコ語、ロシア語です。
アラビア語ロッジは今ではイスラエル、シリア、レバノン三カ国に合計5つあるようですが、不確か情報です。
イスラエル建国の父・ヘルツルの遺体、イスラエルへ埋葬
連合軍国側は何度も「戦争犯罪人」として、亡命したヴィルヘルムの身柄の引き渡しを、オランダに要求しました。
しかし、中立を主張するオランダが守り続けてくれ、彼は穏やかな老後を迎え寿命を全うしました。亡くなったのは1941年、82歳。肺塞栓症によるものでした。
もしオランダが守ってくれていなければ、英仏に処刑された可能性もありますから、本当にオランダ様々でした。
防腐処理されたヴィルヘルムの遺体は今でもオランダに安置されています。なぜ遺体を祖国に還さないのかといえば、本人の最後の願いが
「ドイツが再び君主制になったときにのみ、私の遺体をドイツに返還して欲しい」
…
つまり、永久にヴィルヘルムの遺体はドイツに戻らない…?
ヴィルヘルムの死から8年後。
45年前に亡くなっているヘルツルの遺体はオーストリア・ウィーンからエルサレムに移されました。
これは本人が生前に「ユダヤ人国家が建国したら、そこに眠りたい」と遺言を残していたからです。
ヴィルヘルムの希望は叶っておらず、ヘルツルの希望は叶ったわけですが、エルサレムを追放された多くの人々の
「自分が死んだら、自分の遺体をエルサレムに戻して欲しい」
という願いもほとんど実現していません。
ところで、ヘルツルには三人の子どもがいました。
長女は1930年にヘロインの過剰摂取により40代で亡くなっています。長男は改宗してカトリックになり(!)、39歳の時には拳銃で自殺しました。
次女は第二次大戦の時に、チェコのテレージエンシュタット強制収容所に入れられました。(そこで亡くなったかどうか不明ですが、恐らく亡くなっています)
ヘルツルのたった一人の姉も、まだ10代の時に病死しており、意外といろいろ不幸の多かった家系です。
その後のトーマス・クック
1928 年にフランクとアーネストが退職し、会社は初めてクック家から離れました。
1930 年代、同社は、ヨーロッパ各地でオリエント急行やその他の豪華列車を運行していた国際寝台車会社、ベルギーのワゴン リーによって所有されました。かつてのエジプトパッケージツアーの大ライバルだった会社です。
第二次大戦が始まると、イギリス政府はナチス・ドイツがトーマス・クック社を取ることを恐れ、ベルギーの会社から同社を買い取り、イギリスの国鉄会社に託されました。
そして1948 年に国有化され、その後 24 年間、トーマス・クックは事実上イギリスの国有会社であり続けました。
今の人々が想像する、飛行機で飛び、安価の旅行を好み、ツアー料金を格安におさえるといった現代の旅行形式が始まったのは、1950年代以降です。
1970年代になるとオイルショックが起こり石油価格が上昇し、不況になり、多くの旅行会社、多くの新しい旅行会社が廃業しました。だけども、トーマス・クックは生き残り、1972年には国有化が解除され、今度はミッドランド銀行に所有されました。
銀行会社に20年間所有された時代、なにしろ銀行が頭ですから、多くの合理化が行われ、トーマス・クックの主要な旅行および金融サービス機能と並行して保有していた配送および転送部門が売却されました。
北ウェールズのプレスタティンで建設し運営していたホリデーキャンプも売却されました。
中でも注目すべきは、本社のミッドランド銀行がトーマス・クックが約百年近く所有していたカイロ中心部にある不動産を手放したことです。
トーマス・クックは 19 世紀後半からカイロ中心部に多くの不動産所有しており、ナイル川にも造船所を所有していました。これを全て売りに出したのです。
(ただし、1952年のエジプト革命の後、外国人と外国起業の所有するエジプトの財産並びに不動産は全てエジプト新政権が没収したはずなので、この話には私は疑問があります。)
1980 年代、トーマス クックはツアー オペレーター(現地旅行手配下請け会社)として長距離路線の運営(鉄道や飛行機のチケットの取り扱いと販売)と、小売ネットワークを拡大する旅行「代理店」として機能しました。
80 年代後半にはトーマス クック 「ダイレクト」も導入し、実際に初めて電話で休暇を予約できるようになりました。
1995 年に最初の Web サイト、つまりインターネット上の Web サイトにトーマス・クックの企業ページが登場しました。
さらに多くの買収が続き、フライング・カラーズ、タイム・オフ、カールソンとの合併、1999 年の JMC の立ち上げなど、人々は覚えているかもしれませんし、覚えていないかもしれません。
JMCとはトーマスの息子のイニシャルであるジョン・メイソン・クックを意味するものでしたが、当時は多くの人がそれを理解していなかったので、JMCの会社名は浸透せず、それほど長く存続しませんでした。
1996 年にサン ワールドを買収したときに航空会社を設立し、エア ワールドも買収したため、膨大な数の航空機を保有しました。
2001年にさらに変化があり、トーマス・クックは金融サービス部門をトラベレックスに完全に売却しましたが、5年後に再び金融サービス部門に戻り始め、2001年に残っていた中核の旅行事業が実際に売却されました。
コンドルとネッカーマン(Condor and Neckermann )というドイツの旅行会社に依頼し、そこで見られる新しいロゴが導入されたのです。
その後、奇妙なことに、コンドルとネッカーマンは社名をトーマス クックに変更しました。しかしこれは非常に紛らわしいため、「トーマス クック AG」 になりました。
次に、2007 年にはトーマス クックがマイ トラベルと合併しました。
トーマス・クック旅行パンフレットと世界中の支店のお客さんからの手紙と写真から見えてくるもの
2007年の時点で、トーマス・クックの作成した旅行ツアーパンフレット(しおり)は一万冊を越えました。
トーマス・クック社の正式な最初の旅行パンフレットは 1858 年のスコットランド ツアーのもので、1865 年にはフランス、スイス、イタリアのクックスツアーの旅行パンフレットも作られたのですが、思い出してください。
一言で「旅行パンフレット」といっても、この旅行社は何もロンドンだけにオフィスを構えていたわけではありません。
世界中に支店を持っており、各国の支店にはそれぞれ独自の旅行パンフレットを配布していました。当然、一万冊の数にもなるわけです。
それらを見ていくと、各地の観光地のアドバイスや為替レートなど、時代が分かり大変興味深く、またツアー販売展開をする国地域によって、同じトーマス・クック社のパンフレットでもその中身がまるで違うのが興味深い点です。
そして、過去の全支店のトーマス・クック社の従業員雇用契約書も保管しており、それらをみていっても、「時代の移り変わり」を楽しめます。
例えば、1925 年からの「素晴らしい規則」があり、そのうちの 1 つは、25 歳未満の男性は経営者の許可がなければ結婚できない、女性は結婚したら会社を辞めなければならないというものでした。
もっとも貴重なのは、トーマス・クックパッケージツアーに参加したお客さんが会社に送ってくれた手紙や旅日記、写真も全て取っていたことでした。
元トーマス・クックツアー客が記したものを見ていくと、予想以上に面白いものが多く、旅先で会った人々のことや、ツアーの中の人間関係についていきいきと書いています。
例えばパリの万博ツアーに参加した三姉妹の旅日記や、アメリカ大陸横断ツアーに申し込んだ大家族の感想文など、素晴らしい旅エッセイです。
ツアー客の旅先写真は、ひとつのファッションの歴史を覗くようです
1868年のイタリアツアーの参加者たちの服装や髪型、その百年のイタリアツアーの参加者たちの装いの比較など、なんと好奇心をくすぐられることでしょうか。
中でも圧倒的なお客さんからの写真と手紙の数を誇るのは、エジプトツアーです。それらを古いもの順から見直していくと、エジプトのツーリズムの発展の歩みと重なります。
あと、世界中の支店支社の社内誌、社員の死亡通知や退職届も残されています。
これらを全て保管していたことにも驚嘆しますが、クック社が保管している過去のツアーの申込者リストや鉄道飛行機チケット購入者リスト、社員リストの中にあなたの先祖の名前も見つかるかもしれません。
(*この話は2007年時点のもので、2024年現在、そういった保管がどうなっているのか分かりません)
トーマス・クックグループ、中国の旅行会社になる
2010年
トーマス・クックがロシアの旧国営旅行社インツーリストを吸収合併した時には驚きました。ずいぶん、厄介な荷物を背負い込んだな、と…。
非常にやりにくいロシアの旧国営旅行社を引き受けたせいが直接的な引き金ではなかったようですが、2019年、トーマス・クック・グループは破産。
2001年のNYテロ、その後の鳥インフルエンザ、ノロウイルス、サーズ騒動や、あとクックが航空機をたくさん抱えたのが失敗だったのではないか、と私は思っています。
それに時代の流れもあり、人々がインターネットで各手配を直接行うようになったのがとどめだったのかもしれません。
これまでずっとトーマス・クック社は何度様々な国々の企業に買収されてきたのですが、世界最古の旅行会社が破産したニュースは日本でも大きく報道されました。
破産当時、同社を通して旅行をしていた約60万人(内イギリス人15万人)が「帰れなくなり」、イギリス政府が「送還救済」に動きました。
それはともかく、トーマス・クックの名前はもう消えると思われたのですが、翌年2020年、中国の復星国際がトーマス・クック・グループを買い取ります。
そして、なんと今年の2024年に入り、今度は中復星国際がトーマス・クック社をポーランドの企業に売却しようとしている話が浮上しました。(*2024年4月の現在、この買収話がどうなっているのか分かりません)
人々を世界中に旅させていた世界最古のパッケージツアー旅行会社が、今度は会社自身が世界を旅しているとは!
トーマス・クックシリーズを終えて、私は一番感心したのは、最後の「お客様からの手紙や写真を全て保存していた」のくだりです。そしてそれらを整理して見ていくと、「歴史」が見えてくるというのにも、心が打たれました。
パレスチナについては、次回の
「オスマン帝国領エルサレム時代から始まり、4つの政権と5つの戦争を経験したウード奏者の物語」、その次の「中東のロスチャイルド家と呼ばれたギリシャ人一族」にて少し触れていこうかな?と考えています。
ハッピーゴールデンウィーク✨
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トーマス・クックシリーズ参照
(出典により、割と内容が異なっていますが、ここでは私なりの解釈と考え、推測も含めて記事にしていきました。多少、時代の前後が違っている部分もあります)
"Both English and Jewish": Negotiating Cultural Boundaries in "Young Israel," 1897-1901 MADELYN TRAVIS Published By: The Johns Hopkins University Press
https://ar.wikipedia.org/wiki/%D8%B9%D8%A8%D8%AF_%D8%A7%D9%84%D8%AD%D9%85%D9%8A%D8%AF_%D8%A7%D9%84%D8%AB%D8%A7%D9%86%D9%8A
Jewish Culture and History Volume 23, 2022 - Issue 3(Zionist pilgrimages: the beginning of organized Zionist Jewish tourism to Palestine at the end of the Ottoman period)
https://www.academia.edu/14387577/British_tourists_and_travellers_in_Nazi_Germany_1933_1936
https://www.cdamm.org/articles/christian-restorationism-prior-to-1900
http://www.levantineheritage.com/bel.htm
https://www.bbc.com/news/uk-england-leicestershire-36672483
https://www.amazon.com/Tourists-Travellers-Hotels-19th-Century-Jerusalem/dp/1907975284
https://parallelhistories.org.uk/the-germans-in-jerusalem/
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0261517719300974
https://blog.nli.org.il/en/mark-twain-in-palestine/
https://www.tagesspiegel.de/kultur/die-reise-nach-jerusalem-6605818.html
https://villemagne.net/site_fr/jerusalem-thomas-cook
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https://www.nytimes.com/interactive/2016/05/13/opinion/sunday/15danforth-web.html