アレクサンドリアの「眺めのいい部屋」〜A Room with A View in Alexandria〜
1915 年 11 月、アレクサンドリアに到着。
イギリス人作家のEMフォスターは 36 歳でした。すでに『眺めのいい部屋』や『ハワーズ・エンド』など 4 冊の小説を出版しています。
蒸気船で地中海を超えてこの地にやって来たのは、第一次世界大戦で兵役から逃れるために赤十字に志願し、アレクサンドリ赴任が決まったからです。与えられた任務は、只今勃発中の悲惨なガリポリの戦いで行方不明になっているイギリス人兵士の捜索でした。
この戦いでは、滅亡末期のオスマン帝国の戦力を見くびっていた連合軍が逆に徹底的にやられてしまい、イギリス人兵士も多くの死者や行方不明を出していました。
アレクサンドリアはそのガリポリの戦いの中継点、市内の赤十字病院には連合軍の負傷兵で満床でした。
フォスターは民間人ではあったのですが、カーキ色の軍服を着て士官の地位にあり、住まいも自分で探さねばならず。そうして目に止めたのは、この前年1914 年 にオープンしたばかりの「眺めのいい部屋」で定評があるマジェスティックホテルでした。
位置は街の中心部のムハンマドアリ広場、部屋のバルコニーに出ると眼の前のフランス庭園、遠くには海の素晴らしい景色を望めました。とにかく眺めのいい部屋です。それに新しい埠頭、エジプト郵便局、裁判所、主要な商業施設のすぐ近くにあり、立地も最高。
ただし暗くてぱっとしないホテルでした。すぐそこのセシルホテルには華やかな人種が来ていましたが、メジャスティックの方には公務員などの出張客ばかり。しかしフォスターはそこに逗まりました。その理由は前述の「眺め」「便利な場所」そしてトラムでした。
当時、メジャスティックホテルの前のフランス庭園までトラム(路面電車)が走って来ており、 トラムは運転席が電車の外側部分だったため、運転手の顔、姿が外からよく見えました。
恐らくですが、フォスターはホテルの部屋のバルコニーから、フランス庭園までやって来るトラムを眺めていたのではないかと思います。そしてその運転手に人生で最大の恋をしました、これは事実です。
「部屋に眺めがないわ!」
ところで、一本の映画が人生を変えるきっかけになることは実際に起こります。私の場合は社会派(ロマンチック)コメディ映画「A Room with a View」がまさにそれでした。
オープニングでイタリア人プッチーニの喜劇「ジャンニ・スキッキ」のオペラ歌が流れるので、その時点で「あ、これはコメディ映画なんだな」と分かるのですが、出だしがイタリアのフィレンツェというところから、なるほど!「ジャンニ・スキッキ」でもフィレンツェの景色を見て、男女が愛を誓うからです。
余談ですが、私が子どもの時にはオペラの喜劇はよく見に連れて行かれ、この「ジャンニ・スキッキ」も見ています。でも一番楽しかったのは「こうもり」でしたけど!。
「眺めのいい部屋」の映画製作にあたり、そこまで考えた上かどうか分かりませんが、プッチーニは「アイーダ」のオペラを鑑賞して影響を強く受け、自身もオペラ作曲家を志しました。そして「眺めのいい部屋」の原作者フォスターはエジプトのアレクサンドリアに住んでいました。
とにかくこの映画では、まるでオペラの世界を彷彿させる映像美にまず私は魅入られ、それから物語の中に込められた社会風刺や皮肉、ユーモアに感動。
映画館に足を運んで一週間、二週間経ってもまだ余韻が残っていたので、すぐに新宿の紀伊國屋書店に行き、上の階の洋書売り場で原書を探し購入。 辞書を片手に引きながら読み、これがきっかけでイギリスにホームステイ、その後、同じEMフォスター原作の「アレクサンドリア」も読みエジプト留学に繋がり、そこから「インドへの道」ごとくインドにも渡り、生活をしました。
§
「アルノ河が見える部屋を用意するってシニョーラは言っていたのに、中庭しか見えない部屋じゃないの」
19世紀初頭のエドワード朝時代、そこそこの家庭の子女は文化や歴史、流行の素晴らしい外国の街へ旅行に出るもので、ルーシーも口やかましいオールドミス(!)の従姉の”Poorシャーロット”とフィレンツェにやって来ます。
この物語はコメディ(喜劇)だと言いましたが、実際に台詞の掛け合いが非常にユーモラスです。
例えばルーシーが旅先で出逢ったエマソン父息子の息子の方とキスをしてしまい、それを知ったお目付役シャーロットが青ざめ
「あなたのお母様に知られたら、私まで叱られてしまうわ」
のようなことを言い、ルーシーとこそこそ相談し
We will both be as silent as the grave.(お墓のように沈黙でいましょうね)。
どうってことのない台詞ですが、ベテラン女優のマギー・スミスが口にすると思わずぷっと吹き出します。
ちなみにマギー・スミス以外は全員無名役者だったので(よってオープニングのクレジットも真っ先にマギー・スミスの名前)、そのために制作費がたった400万英ポンドしかなかったのに、フィレンツェの外国ロケも敢行できてあれだけの衣装にお金をかけられたらしいです。
本物の当時のドレスと完璧なレプリカドレスを用意したそうで、小道具も全て完璧です。
映画公開時まだ中学か高校生だった私もすっかり魅入られたのですが、当時一番分からなかったのが、映画の冒頭シーンです。
フィレンツェの食堂で、マギー・スミス演じる根暗の”Poorシャーロット”が部屋の眺めが悪いとぶつぶつ文句を言っている時、見知らぬ男性が
「部屋を交換しましょうか」
と話しかけてきますが、その途端シャーロットの態度が身構えるものになりました。
川崎在住だった英語個人レッスンのイギリス人エリザベス先生にそのことを聞いてみました。
「あのシーンは一瞬で視聴者に【イギリスのクラスの違い】を教えています。シャーロットがうっと身構えたのは、声をかけてきた男性の英語が労働階級のものだったからです」
確かに今では分かります、「訛って」います。酷い訛りで「んだあ、部屋交換してやっから」と突然声をかけられたら、ウッとなります。
さらに、
「ヒロインのルーシー役になぜへレム・ボナムカーターが抜擢されたのかというと、彼女の話す英語はいい階級のもので、上品だからそうです」
へえと感心し、ふと
「そういうエリザベス先生は何の階級の英語を話されているのですか?」
まだ若い私はそんな失敬な質問を投げかけました。すると
「BBC英語です」
と得意顔で言ってきたのが、今でも忘れられません。
北島マヤになりきって映画の台詞を覚える
エリザベス先生に「眺めのいい部屋」のヒロインの英語がとても美しい良い英語だと聞き、
「かっこいいな、じゃあ真似しよう」
と当時、お年玉でこの映画のVHSを購入。高かったです、2万円はしたような記憶です。店では「眺めのいい部屋」のビデオのすぐ隣に、なぜか小泉今日子と羽賀研二の「生徒諸君!」が並べられていたのが忘れられません。
階級のいい英語を覚えるために「眺めのいい部屋」のビデオを毎日見たかったのですが、自分の部屋にテレビがなかったので、仕方がなく外部入力でソニーのメタルカセットテープに録音。A面からB面、さらに二本目のカセットテープに録音を引き継ぐタイミングが難しく、苦戦。
映画のセリフを全部録音したカセットテープは、毎日電車通学(遠距離でした)の時にSONYウォークマン…ではなく東芝のWALKYで聴きました。
「エマソン親子の英語じゃなくて、ルーシー役のへレム・ボナムカーターの英語を聞かなくっちゃ」
そんな生意気なことを思い、ルーシーが何かいうとすぐに口に出して英語の台詞を真似していました。北島マヤのようなことをしていたわけです。
そしてイギリスの貴族の家ホームステイへ
もっと登場人物たちの心情も知りたいと思い、新宿紀伊國屋で「眺めのいい部屋」のペンギンブックスも買ったのですが、ちなみに昔は紀伊國屋洋書コーナーをいつも友人との待ち合わせ場所にしていました。空いていて良かったんです。あと外国の「紙」の独特な匂いが漂っているのも好きでした。
しかし昼時に一歩外に出ると、すぐ横の「アルタ」では「笑っていいとも!」生放送がアルタビジョンで映っており、途端に外国の香りが消えてしまうのもシュールな思い出です。
しかも紀伊國屋で洋書を買って、そのままそのアルタに入り、地下でしたでしょうか。広島焼きの店によく寄っていました。
東芝版ウォークマンのWALKYで「眺めのいい部屋」自前録音カセットを聞き続けたけれども、へレム・ボナムカーターのような美しい英語を身につけられたのかといえば、それは別次元のことで、”Poor Lolo”(私)には全然だめでした。
とは言え、素晴らしい本物の英語は身につかなくとも、世界が広がりました、Great Viewsが広がった。それは「眺めのいい部屋」の影響によって、高校生の時にイギリスにホームステイへ行きたいと思ったこと。もしあの映画を見ていなければ、おそらくメジャーなアメリカを選んでいたと思います。
この時に、たまたま手違いか偶然かで貴族の屋敷にホームステイできたのですが、アメリカに飛んでいたら貴族の家にはステイできなかったでしょう、貴族がいないから。
イギリスホームステイ中に、ホストたちの会話で英領時代のインドやエジプトを知ります。彼らの親だが祖父、曾祖父がそれらの植民地に駐在していたとかで、古い写真を見せてもらったりしたのです。なんとなくそれは頭の片隅にインプットされました。
「モーリス」と「インドへの道」
次は同じ原作者と映画監督だというので、「モーリス」の映画版を見ましたが、ミニシアター前は女性で長蛇の列だったと思います。女だらけの長い列にこれだけ並んだのは新宿伊勢丹前の「新宿の母」の手相占い以来でした。余談ですが、新宿の母は清々しいほど全部占いは外れました。
「モーリス」の映画を見た後、やはり辞書を引きながらせっせと原作を読みました。
私は後で知ったのですが、原作者のフォスターはこの小説を自分の生前に発表する勇気がなかったといいます。なぜならすでに作家としての名声を確立していたオスカー・ワイルドがゲイを公表し叩かれていたからです。元々彼は母親にショックを与えたくなく、ずっと自分のセクシュアリティを懸命に隠していたそうです。
フォスターがゲイだったというのを何かの記事で知ったのは、私がまだ二十歳前の時でしたが、昭和の少女漫画はそれをテーマにしたものが多く(パタリロ!、風と木の詩、トーマの心臓、摩利と新吾等など)、よってすでに「慣れて」おりました。
私に限らず、男性同士の恋愛を描いた「モーリス」の映画が日本ではあれだけ(こそこそではなく)オープンに流行って(特に女性)に受け入れられたのは、そういう土台がすでにあったからなのかもしれません。
フォスターは「モーリス」の原稿を書き上げた時、信頼できる仲間にそれを預けました。
「自分が死んでから世に出して欲しい」
ところがDHローレンスがなぜかこの原稿を入手し、影響を受け「チャタレイ夫人の恋人」を書き上げました。たしかに「森番」などシチュエーションが同じです。
「モーリス」の原稿は約束通り、フォスターの死後に発表されました。
次はやはり映画化された「インドへの道」を原書で読みました。
しかしどうにもよく理解できず、映画を見てもいまひとつです。それをエリザベス先生に言うと、イギリスとインドの関係をやはり教えてくれました。ここからインドの近代史を読み漁り、すると英領インド時代の様々な本の流れで、EMフォスターがエジプトにも住んでいたことを知りました。
『アレクサンドリア: 歴史とガイド』 (1922 年出版)
そこで、EMフォスター作『アレクサンドリア: 歴史とガイド』 を読んでみました。
これが何故か非常に心に残り、その後、私は何度か国内外引っ越しをしましたが、フォスターの『アレクサンドリア: 歴史とガイド』 だけは処分することなく、必ず次の引っ越し先にも持っていきました。
大学生の時、たまたま周りがタイ、ドイツ、スイスなど英語圏ではない国の大学へ編入しており、影響を受けた私も
「英語圏以外の世界に飛び込みたい」。
そんな時にふと脳裏に浮かんだのが『アレクサンドリア: 歴史とガイド』でした。
EMフォスター、アレクサンドリアに住む
記事の冒頭に戻ります。
第一次世界大戦真っ最中の1915年。
ガリポリの戦いでの死亡者と行方不明者捜索の任務で、中継点アレクサンドリアに赴任したEMフォスター。
最初は勤務時間中に市内の病院を訪れたり、一人でふらりと海岸を散歩したりして過ごしました。
母親に、
「アレックス(アレクサンドリア)を嫌いになることはできない…海も石も嫌いになることは不可能だからだ」
と手紙を書いています。
これは言葉を返せば、最初は「海が綺麗なだけの街」の感想しかなかったことになります。なので3ヶ月だけ滞在するつもりでしたが、トラム(路面電車)運転手のムハンマド・エルアドに惚れ、そこからフォスターの気持ちが変わります。
なお二人が知り合ったのは、イギリス人の彼が地元の人間向けのバスの乗客だったというのも考えにくいです。
よって、最初はホテルの部屋のバルコニー(この場合、低層階の前提が必要ですが、フォスターが何階の部屋に長期滞在していたかは分かりません)、もしくはフランス庭園に腰掛けくつろいでいた時に見かけただのがきっかけだったであろうと、私は想像します。
そしてきっとエルアドの方もフォスターが自分を見つめているのに気がついた。イギリス人は目が合うとにっこりする習慣がありますから、そこから距離が縮まったのではないでしょうか。
結局、彼はアレクサンドリアに3年以上滞在しました。これはインドに住んだ時よりも長いです。
その結果、前述した『アレクサンドリア: 歴史とガイド』 、アレクサンドリアをテーマにしたエッセイ集『ファロスとファリヨン』(1923 年) を書き上げました。
ところが、一年経つ頃にはエルアドとの関係を赤十字に知られ、フォスターはイギリスに帰国(諸説あり)。しかしはエル・アドルと文通を続けます。ずっと、ずっと手紙を送り続けるのです。
エル・アドルは女性と結婚しますが(しなければならなかったと推測されます)、それでもフォスターは彼に手紙を出し続けます。
アレクサンドリアの恋
1922年、ある知らせが入りました。
エル・アドは結核で死亡。まだ若いです、20代前半です。 彼の死を知ったフォスターについてヴァージナ・ウルフによれば、「衰弱して衰弱し、小説を書く力もなくなってしまっていた」。
しかし、気がおかしくなりそうになりつつも、彼の作品で最も有名な小説になる「インドへの道」を書きあげます。そう、10代だった私がちんぷんかんぷんだった小説(と映画)です。
だけども、最愛の人を亡くした直後にあの「インドへの道」が生まれたというのを知ると、この小説への見方が変わります。
例えば、
“But it struck him that people are not really dead until they are felt to be dead. As long as there is some misunderstanding about them, they possess a sort of immortality.”
(「しかし彼は、人は死んだと思われるまでは本当の死ではない、と考えた。何らかの誤解がある限り、人は一種の不死性を持っているのだ」。)
「インドへの道」より
最も感動的なのは、フォスターがこの作品を書き終えた時に書いた日記で
「“Finished A Passage to India and mark the fact with Mohammed’s pencil.” (January 21st, 1924)インドへの旅を終えた。ムハンマドの鉛筆を手に取り、そのことの印を付けた」 (1924年1月21日)
「インドへの道」の意味、「ムハンマド(エル・アド)の鉛筆」の意味など色々な解釈で深読みすると、非常に胸がぎゅっと締め付けられます。それにフォースターの最高の作品のひとつが、エジプトの路面電車の運転手との関係によって生み出されたということは驚くべき事実です。
EM フォスターは、自身の『モーリス』について次のように述べています。
「‘I was determined that, in fiction anyway, two men should fall in love and remain in it for ever and ever’.
(私は、フィクションにおいては、二人の男が恋に落ち、永遠にその関係を続けるべきだと決心しました) 」
最後の「ever and ever」にもウッときます。
ゲイ仲間であり作家仲間でもあったヴァージニア・ウルフは
「彼の生涯の愛人はアレクサンドリアのムハンマド(・エルアド)だった」
と証言しています。
分かる気がします。繰り返しますが、フォスターは当時まだ30代ですでに4冊出版し、作家としての名声を手に入れていた。大事にしていた母親もまだ元気だった。そんな時に、地中海の国際的な街で、純朴な若い青年に出逢った。
フォスターは一生二度とアレクサンドリアへ戻ることもありませんでした。
寂れたメジャスティックホテル
「これがEMフォスターの住んだメジャスティックホテルですか?」
1990年代、私は初めてアレクサンドリアを訪れ、ムハンマドアリ広場へ真っ先に向かいました、黄色と黒色のタクシーで。
そこにはフランス庭園などなく、無遠慮にじろじろ眺めてくるエジプト人しかいませんでした。
メジャスティックホテルの建物自体は残っていたものの、ホテルとしてはもう営業しておらず、一階には冴えない何か店が入っている古い汚い建物でしかありませんでした。足を踏み入れる気にすらなれませんでした。
オペラ座もずっと長いこと閉鎖しており、街の何もかもくすんでいました。
その後、メジャスティックホテルは無許可階数を増やされ、その後勝手に取り壊されただの小耳に挟みました。
例えそれが本当でも、勝手にどんどん高さを増やすのは当たり前で、法律や許可の取得といった細かいことを無視するのも当たり前ですから、全く気になりません。(近年は知りません)
ただ、この地中海の街にはクレオパトラ七世とシーザーの面影も、そしてフォスターとエルアドの面影も何ももはや残っていないことに、何とも言えない切なさを感じました。
しかし、私の想像の中では時間が遡り1915年に戻り、
EMフォスターがメジャスティックホテルの部屋のバルコニーに出て「そろそろ時間かな」と時計を確認し、
すぐ下のムハンマドアリ広場のフランス庭園まで、エルアドが運転するトラムがやって来るのを待っている。
そしてエルアドが顔を上げてフォスターにほほ笑み返す。
そんな空想光景が消えません。
§
10代で見た「眺めのいい部屋」の影響で、原作者EMのフォスターの他の作品も読むようになり、そこからアレクサンドリアを知り、
「英語圏以外の国に留学してみたい」
と思った時にEMフォスターの『アレクサンドリア: 歴史とガイド』の影響もあってエジプトに留学しました。思いの外、とても長い生活となり、未だに多くのつながりを持っています。
このエジプト留学がきっかけで、それ以降いくつもの国に住むことになりました。例えばインド…。
「眺めのいい部屋」がもたらしてくれた「眺めの多い部屋」です。
参照
http://grandhotelsegypt.com/?tag=majestic-hotel
https://www.nybooks.com/articles/2014/11/06/forster-love-story/
https://medium.com/the-pink-green-room/e-m-forster-and-the-egyptian-tram-driver-673aeb21ab7b
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