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銀幕(スクリーン)の中の銀河【幼年期のスクリーン・9】

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銀幕(スクリーン)の中の銀河

「スター・ウォーズ」「さらば宇宙戦艦ヤマト」公開の夏休みが明けて、1978年(昭和五十三年)9月から「銀河鉄道999」のテレビアニメが始まった。

「銀河鉄道999」は連載されていた「週刊少年キング」を読んでいたので、テレビアニメ化の前から知っている。

私が小学生の頃、仕事帰りの父親がよく少年漫画誌を持ち帰ってくれたため、ほぼ全誌を読んでいた。

現在も発行されている「週刊少年ジャンプ」「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年チャンピオン」に加え、その後休刊となった「週刊少年キング」。

当時は電車を降りる時に読み終わった雑誌や新聞を網棚にわざと置いていって、次の人に読んでもらうという風習があった。

今ほど値段もしなかったし、わざわざ家に持って帰る方が面倒だったのだろう、ゴミ箱に捨てる代わりに置いていき、次に読んだ人も更に置いていくといった具合。

当時終点の成田駅近くになると、ガラガラの車内の網棚にポツンと雑誌が置かれていたりするので、それを父親が持ってきてくれていたという訳だ。

その後、それをビジネスにする人が出てきて、終点付近の雑誌は全て消えていくのだが、それはかなり先の話。

もちろん、成田駅までの途中で人気のある雑誌などは持ち帰る人もいるので、毎号必ず読める訳ではないし、どうしても続きが読みたい場合は頼んで買ってきてもらっている。

「999」がアニメ化されて人気になる前の週刊少年キングは残っている率が高かったのか、同じく連載されていた藤子不二雄Aの「まんが道」と併せてよく読んでいて、アニメで最初の話からきっちり観だしてからは相当ハマってしまった。

複雑な設定が多かったSFブームの作品の中では、「機械の体をタダでくれる星を目指して、少年と謎の女性が宇宙を旅する」という、シンプルな「999」の設定は小学校低学年にも分かりやすかったし、基本的に一話完結というのも良かったのだろう、周りの同級生もハマっている子が多かった

単に男子だけでなく女子人気もあって、それまでのハッキリ男子と女子の人気が分かれていたアニメとは違う雰囲気。

当時仲が良かった女の子と共通の話題になれることもハマった理由かも知れない。

クラスだけでなく、学校全体でも人気があったようで、昼の校内放送では誰かが録音した、以前に放送された「999」の音源をそのまま流していたりした。

「ヤマト」「999」の放送までは人気だったのだが、「さらば宇宙戦艦ヤマト」のテレビ版「宇宙戦艦ヤマト2」で古代が死なないなどの改変を取ったせいなのか、取って代わられる様にピーク時ほどの人気は無くなっていったと思う。

そんな「999」が映画化されるのを知ったのは、1979年(昭和五十四年)の春休みに久々に行った千葉栄町東映での「ウルトラマン」映画の二本立てを観に行った際に流れた特報だった。

メインは1966年(昭和四十一年)の初代ウルトラマンの映画版「実相寺昭雄監督作品 ウルトラマン」だが、テレビですでに何度も観ていたし、しかも人気怪獣の全く出ない地味なエピソードの連続なので、弟の付き添いで嫌々行った感じである。

正直言って、地方のみの併映作だった海外との合作映画「ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団」の方が面白かった。ただこちらは現在封印されているらしく、真っ当な手段では観る事が出来ない。

その二本の上映前か合間かは忘れたが、特報が流れる。

999が地球から発車したあと宇宙空間に線路が続き、映画版から起用された城達也のナレーションが響く。

そして、漫画とテレビアニメ版で使われた松本零士作品特有の手書きの立体感のあるデザインから、明朝体のシンプルなデザインに変更された「銀河鉄道999」のタイトルが浮かび上がる。

線路の先にメーテルが立っていて、そこに向かう999の車窓には、青年になった鉄郎が身を乗り出している。

本編にはないイメージ映像が流れるだけだったが、テレビ版とは異なり子供向けではない重厚な雰囲気に心が躍り、公開が待ち遠しくなった。

「東映まんがまつり」の様にテレビのエピソードのスペシャル版にするとか、「宇宙戦艦ヤマト」の様な総集編、そして「さらば宇宙戦艦ヤマト」の様に新作続編というのはあったが、最初からの話を再構成して作り直すというのはおそらく初めてだったと思う。

その特報を観てから公開を待ちわびること数ヶ月。

公開直前には、これはテレビでニュースを見て滅茶苦茶羨ましかったのだが、原作の松本零士が車掌を務めたミステリー列車が走ったり、ゴダイゴの主題歌がヒットしたりして、盛り上がっている。

今はアニメソングがヒットチャートを賑わせるのはよくあることだが、これがおそらく初めてで、しかも他局のアニメなのに「ザ・ベストテン」で何週も続けて1位を取っていた。

そしてその年の8月4日に公開、この本の最初の方でも書いた購読者プレゼントで当たったパスを持って映画館に駆け付けた。

この時の日記によると、観に行ったのが8月7日なので公開から三日後のこと。親の仕事とかを考えると、急かして観に行ったなというのが伝わってくる。

千葉栄町東映にはよく行っていたが、同じ東映会館の中にあった東映洋画系の千葉東映パラスで観るのはこれが初めて、そして初めての単独興行の映画。

前述の通り、千葉東映パラスは同じフロアに二つの映画館があるので、千葉栄町東映の半分ぐらいしか観客席がない。

という訳で、中に入ると夏休みということもあって、平日なのに大混雑。

「銀河鉄道999」と同じ日に、当時の大人気シリーズ「トラック野郎 熱風5000キロ」と、まだ全くの無名だったジャッキー・チェン主演の日本初公開作品「ドランク・モンキー 酔拳」の二本立てが東映パラスの上の劇場で公開されていて、東映会館に入った時点ですでに混んではいたのだが、中はそれ以上だった。

「東映まんがまつり」の時と違って、中高生ぐらいが多く、弟も一緒にいたのだが自分たちが一番下ぐらいの客層。

立ち見どころか通路に座り込んで観る客もいるような状況、映画館の中には入れたのだが客席には入れず、外で待たされた。

当時は今のシネコンの様に指定席ではなく自由席で入れ替えもなし。なので、上映回の合間にその時に帰る客の席を狙ってサッと座るしかなかった。

外で待つこと一時間以上、やっと客席には入れたのだが席には座れず、しかも物語は終盤の終着駅直前シーン。一回最後まで観てから、ようやく座れた席で改めて最初から見直している。

今考えると滅茶苦茶な観方をしているが、その時初めて語られた結末以外は知っている話だったので受け入れたのだろう。

ただ、椅子に座れたものの、二回目に観るクライマックスの途中辺りで、すでに四、五時間映画館の中にいて痺れを切らした父親に、一度観ているからと連れ出された。

とにもかくにも、売店でパンフレットを買って、隣の映画館のエロ映画のポスターの横を通り、親子三人ヘトヘトになりながら帰路につくのであった。

1979年8月7日の日記

この後、夏休みには千葉東映パラスで長編アニメを観ることが恒例となり、翌1980年(昭和五十五年)には「ヤマトよ永遠(とわ)に」をここで観ている。


AI音声による読み上げ

都合により後日追加します。


今回の登場作品

  • ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団(1974)


次回予告


記事一覧

この記事は、2024年に個人出版した【幼年期のスクリーン Kindle版】を再構成したものです。

尾塩隆志
©2025 Takashi Oshio


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