2.5次元に生きている: フィクションと現実社会の狭間で。

このご時世、何かと燃えやすくなっている気がします。

とくに近頃は、創作と現実、二次元と三次元の狭間で「炎上」する事例が多いような気がします。何だか窮屈な世の中だなぁ、というのが個人の率直な感想です。

最近の事例。

例えば、「小学生を襲うことはできる」。

小児性愛者は、小児型ラブドール購入者は、全員犯罪者予備軍なのか?という議論への個人的な見解でもある。
まず小児性愛は「現実で思いを遂げたら即犯罪」である。
(中略)
小児性愛者が現実で児童と結ばれたらそれは犯罪だ。
あのツイート主は明確に「実在の児童に手を出す前にドールを」と述べている。実在の児童に対する性的欲求を持った上での、小児型ラブドール購入であると明言しているのだ。
当たり前の話だが、我々はどんな性的嗜好を持っていようとも、その前に社会の構成員であり、成人であれば社会的責任を負う存在である。性的嗜好の前に、社会的責任である。大事なことなので2回言う。

例えば、「学生を妊娠させることはできる」。

彼の絵に不満を募らせる人たちがいたのも事実だ。
彼らの不満の内容としては、「高校生が妊娠したら彼女は高校を中退になって、最終学歴が中卒になる!のちの人生はどうなるんだ!」「彼氏、彼女に働かせたり、高校生で妊娠させたり、しかも彼氏は高校中退しなくていいし、結構クズじゃない?」「素直に絵が好きじゃない」などの、やけにリアルな内容であった。
そして、擁護派の意見としては、「フィクションなんだから細かいことを考えるな、作品を楽しめ」「リアルなら問題になることを二次元で作品にするのは何も悪くないだろう」といった具合である。

※ 私注: 元ソースの誤字について私のほうで修正しています。

創作界隈にまつわる最近の炎上は、大体が「それが現実になったらどうするんだ」「現実に影響を来すかもしれないだろ」という点を発端とする傾向にあるように思えます。


空想とリアルの境界が薄れてゆく。

以前書いたことですが、この数年でインターネットやSNSの性質は大きく変わりました。すなわち、かつては匿名空間であったインターネットですが、最近ではむしろネット上のアイデンティティを残すようにする傾向にあるように思えます。もはやインターネットはその匿名性を失いつつあり、その裏で公共性を獲得しつつあるというのが私の見解です。

本題からは外れますが、例えば飲食店での「SNSフォロー割引」というのが代表的な例でしょう。かつてネット空間とリアル社会との間に見られたキャズムは、徐々に埋められてきているように思われます。

匿名性の高い空間であったかつてのインターネットは、その空間そのものが一種のフィクション性を持っていました。リアルとの繋がりが断絶された空間で、リアル社会では言いにくい愚痴をこぼしたり、リアル社会では居なかった共通の趣味を持つ他人と繋がることは、まさにフィクションに近しいものがあるでしょう。

一方で、最近はネット空間で起きたことがリアルに作用すること(例えば、なろう作家がラノベデビューする)もあれば、逆にリアル社会で起きたことがネット空間に作用する(例えば、テレビ上の芸能人の発言がネット上で炎上する)といった、ネット空間とリアル社会の相互作用が強まっており、両空間が同化しつつあるように見えます。


ネット空間を「選択」するということ。

ただし厄介なのが、同化しつつある2つの空間は完全には同化していないということです。
確かにネット空間の匿名性は低下し公共性は上昇しているものの、一方でネット空間の本質的な匿名性は完全には失われていないということです。ネット上の「デマ」は最たる例です。完全に匿名性の失われた空間で、デマを流すことはできません。

また「公共性が高まっている」といっても、ネット空間がリアル社会全体レベルの公共性を獲得しているわけでもない点にも留意すべきでしょう。
SNSでいえば「フォロー」するかどうか「選択」することができるわけですが、この「選択」によってネット空間における「あなたの社会」が決まるわけです。それを広げることも、狭めることもできますが、それは全てユーザーの「選択」次第だと私は解釈しています。

例えば私が「死にたい」とSNSに投稿したとして、本気で心配するか、無視するか、それはあなたが私を「あなたの社会」に入れるかどうかという「選択」に懸かっているのです。

要は、「あなたのネット空間」が「他人のネット空間」と完全に一致するものではないし、「リアル社会全体」とも完全に一致するものでもないということです。その意味で、「あなたのネット空間」というのは実に相対的でプライベートな概念です。そのプライベート性ゆえに、「あなたのネット空間」から「リアル社会全体」や「他人のネット空間」を推定することも難しいでしょう。


「能力の問題」と「意思の問題」について。

さて、では「創作物がリアルの行動に悪影響を来す可能性が多少でもあるなら糾弾されるべきだ」という命題は正しいのでしょうか。この命題を幾つかの論点に噛み砕いていきましょう。


まず「創作物が受け手の心理や感情、価値観に影響を及ぼすか」どうか。
私は「及ぼす」と思います。それは創作物がどういう内容や媒体であれ、良くも悪くも影響するでしょう。例えば、太宰治を読んで感動し、伊坂幸太郎を読んでハラハラし、Cancamを読んで服が欲しくなり、成人向雑誌を読んで性的興奮が掻き立てられる。こうした創作物の「解釈」というのは創作の本質の一面であると思いますから、わざわざこれを否定する必要はないでしょう。

注意したいのが、どのような創作物が受け手の心理に影響するかは、受け手の「選択」に懸かっているということです。つまり、私が読んだことのない本が私の心理に直接影響するということはあり得ません。


では、「影響を受けた心理をもとに、行動に移すか」
私はこれを「意思」の問題と捉えています。例えば、「雑誌を読んで購買意欲が高まる」ことと「実際に買うかどうか選択する」ことは別問題であるということです。私が金欠だとしたら、いくら購買意欲が高まっても「消費者金融を頼って実際に買う」という選択はしません。あるいは、私がいくら太宰治に共感したとしても、「実際に玉川上水で入水する」という選択はしません。
行動に移す「能力」はありますが、それを実行に移そうとは考えません。

すなわち、感情と行動の狭間には「意思」があり「選択」があります。この「意思」や「選択」は、「法律」などの「社会規範」「理性」「信頼」「倫理」といった私のリアル社会を渦巻くものによって規定されるわけです。

可能性の話であれば私は文字通り「海賊王」になれますし、比喩的にも「海賊王」になれます。ですが、私は「意思」によって「海賊王にはならない」という「選択」を無意識のうちにしています。

要は、「創作物を読んだら即実行」というのは乱暴な仮定であるということです。創作物とリアルでの行動の狭間には必ず「意思」の問題が常に介在するわけです。


まだ社会的コンセンサスを得られていない。

創作物の内容を実際に行動に移すのが「意思」の問題であると捉えた場合、基本的に創作物の投稿は自由になります。海賊王の物語でも、殺人鬼の物語でも、小児性愛の物語でも、許容されることになります。『舞姫』を糾弾する人は、ほとんどいないでしょう。

では、「ネット上ではあらゆる情報を無制限に上げていいのか」と言われると、流石にそれはNOでしょう。

例えば、ネット空間に勤め先の機密情報を流出させること、他人の創作物を勝手に転載すること、SNSに他人への誹謗中傷を書き込むことなど、ネット上で望ましくない行動というのがあります。このようなネット上での行動もやはり「意思」の問題です。しかし、上記行為は社会的には望ましくないという「社会的合意」が十分に醸成されています。つまり、そういう「社会的合意」が「社会規範」や個々人の「倫理観」などを通じて「意思」に影響することで、上記行為が抑制されるのです。

これこそが「社会的責任」です。形成された社会的合意を尊重していくことこそが社会的責任です。つまり、社会的責任を果たすには、社会的合意の存在が不可欠なのです。


では、「ネット空間の創作物」はどうでしょう若干抽象化すれば、「フィクションであっても、現実に起きたら望ましくない内容はネット空間に投稿すべきでないのか」という問いに対して、現時点で「社会的合意」は得られているのでしょうか。

冒頭で紹介した記事について引用した部分ですが、改めて。

彼らの不満の内容としては、「高校生が妊娠したら彼女は高校を中退になって、最終学歴が中卒になる!のちの人生はどうなるんだ!」「彼氏、彼女に働かせたり、高校生で妊娠させたり、しかも彼氏は高校中退しなくていいし、結構クズじゃない?」「素直に絵が好きじゃない」などの、やけにリアルな内容であった。
そして、擁護派の意見としては、「フィクションなんだから細かいことを考えるな、作品を楽しめ」「リアルなら問題になることを二次元で作品にするのは何も悪くないだろう」といった具合である。

この状況に鑑みるに、まだ社会的合意は形成されていないと言わざるを得ないでしょう。まだYesともNoとも言えない状況です。つまり、「社会的合意」が十分に形成されていない以上、「社会的責任」を問う段階にないのです。

現実問題として、フィクションが現実社会の犯罪等に影響したという事例自体、そう多くはありません。そうした極一部のサンプルを社会全体にまで推定することがいかに乱暴かということです。

ネット空間の創作活動がどうあるべきか、それは今まさにそのコンセンサスを形成する過程にあると考えることができるでしょう。しかしそれは途方もなく時間のかかるプロセスかもしれません。


むすびにかえて: ネット空間の創作活動のこれから。

というわけで、ここまでの要点をざっくりまとめると以下の通り。

・ネット空間自体は匿名性が低下しつつあり、公共性が高まっている傾向にある。この点で、ネット空間とリアル社会の同化や相互作用が進展しつつある。
・しかし、ネット空間の匿名性は未だ健在であり、さらに個々人が直視しているネット空間は個々人の「選択」によって形成されるものであり、その意味でプライベートな側面も持っている。
・このため、「あなたのネット空間 = 他人のネット空間」「あなたのネット空間 = 社会全体」という等式は成立しないし、「あなたのネット空間」から「社会全体」や「他人のネット空間」を推定することも難しい。
・創作物全般は本質的に影響的な性質があるが、どのような創作物が心的影響を及ぼすかは受け手の「選択」に依る部分が大きい。
・また、創作物全般からの影響を受けて実際に行動に移すか否かは「意思」やそれに基づく「選択」の問題である。そうした「意思」はソフトローやハードローなど、様々な制約の影響の下にある。
・一方で、「センシティブな創作物をネット空間に投稿する」という行動も意思の問題である。しかし、ネット空間における創作物の投稿については「社会的合意」が形成されていないのが事実であり、従って社会的責任を問う問わない以前の問題にある。

創作が読み手の心理や価値観に及ぼす影響を軽視すべきではないでしょう。それは悪い側面だけでなく、むしろ良い側面にも働きます。そうした受け手の心的影響が、間接的に現実世界に影響を及ぼすことは留意すべきです。

しかし、創作物の影響を受けて実際に行動を起こすかどうかというのは「意思」の問題でしょう。
やろうと思えばやれる可能性は0ではありませんが、私が『マリアビートル』を読んでも、新幹線で殺し合いを起こそうとは微塵も思いません。『名探偵コナン 天国へのカウントダウン』を観ても、爆弾を仕掛けようとも、手の込んだトリックを仕組もうとも、スポーツカーでビルからビルへ飛び移ろうとも考えません。『舞姫』を読んでも実際に小児性愛に走ろうとは思いません。
しかしネット空間での創作活動については、そうした受け手の「意思」を信頼することが欠如しているような気がします。

重要なのは、そうした「創作活動への信頼」を醸成していくことなのだろうと思います。それがネット空間における創作活動に対する「社会的合意」の形成への第一歩でしょう。


私個人は絵を描くことも、物語を紡ぐこともしませんし、そんな能力もありませんが、こうしてnoteにモノを書く以上、決して無縁な話ではないのかもしれません。


Fin.

いいなと思ったら応援しよう!