noteを書く喜び。

Twitterで知人からのRTでこんなツイートが回ってきました。

お断りしておくと、私はこの作家さんのことを今日初めて知った身分です。なので一見あまり自分には関係のないことだと思っていたのですが、少し内容が気になって読んでみました。

リンク先の内容を少し引用してみます。ちょいちょい端折ってます。

タイトルのとおりです。
諸口正巳(モロクっち)は小説書くのやめます。

(中略)

理由は
・最近、作品の感想はもちろん反応すらもらえなくなってきた
・書きたくない
以上二点です。
一点目はつい最近気になり始めたことではなく、2年ほど前から徐々に感じ始めてきたことでした。
最初から誰にも読まれず感想も来ないというのよりずっと悪いことだと思います。
もらえていたのにもらえなくなってきた。
これはつまり、残念ながら、

もう面白いものが書けなくなった

ということです。
感想がもらえない=つまらない

この考えはずっと昔からあり、もはや説得などで揺らぐようなものではありません。
感想とは衝動の産物で、強く心を動かされたときに自然と出てくるものです。
だから感想は読者が強制されて書くものではないし、もちろん作者が謝礼をもって依頼するものでもありません。

(中略)

しかし実際には、面白いと思っているのはわたしだけというはたから見れば非常に滑稽な状況なのです。
『エイディモートの八人』とかいうゴミにしてもそうです。
支援者に先行公開したのに、ただの一件も感想が来ませんでした。いいねが8個ついたくらいです。
8個! 60人以上支援者がいるのに、ポチッといいね押した人が8人!
毎月わたしにお金を払っている方々ですら何も言えなくなるような作品を、ゴミクズと呼ばずして何と呼べばよいのでしょう。
わたしは面白い話だと思いながら書いていました。
「今日更新のエピソードが山場です!」
「このエピソードを早く投稿したかった!」
誰も反応しないのに、誰も面白いと思ってないのに、わたしひとりだけそんなふうにはしゃぎながら毎日更新とその告知をしてました。

ばかみたいですね。

― 執筆活動を無期限休止します|モロクっち|pixivFANBOX

何とも胸が苦しくなるような内容です。

先ほど書いた通り、残念ながら私はこの作家さんのことは存じ上げていなかったこともあり、必ずしも全てに共感できたわけではありませんし、やはりネット上でも賛否が分かれているようでした。

しかしこの文章を読んだとき、私の中で一つ疑問がすうっと湧き出してきたのです。

「どうせ誰も読みやしない文章」を、何故私はnoteに投稿しているのだろう。

そんなことを考えているうちに思い出したのが、私の出身大学が発行していた論文集の『ものを書く喜び』と題した「あとがき」でした。


4つの「ものを書く喜び」。

先に触れたように、この作家さんは執筆活動を休止した理由の一つに「創作物へのリアクションがなかった」ことを挙げています。この点は人によるかもしれませんが、やはり「リアクションを得る」ということは創作活動の重要なプロセスなのかもしれません。

さて、改めて言うことでもないですが、こんなド底辺大学院生の取り留めのないnoteなんて、リアクションもクソもありません。ほとんど無いといって差し支えない状況です。

きっと先の作家さんに比べれば、私のnoteなんてリアクションを頂く機会はおろか、支援されることも、誰かの目に留まることすらありません。にも拘らず、私は、先の作家さんの言葉を借りれば「つまらないもの」を書き続けています。

そんな「誰も読まない文章」を書くことなんて、合理的に考えれば無意味なのでやめたほうがいい。でも私は何故か書き続けている。それは何とも不思議なことではないですか。

それに対する答えを探しているうちに思い出したのが例の「あとがき」です。まぁ、私の出身大学が明るみになったところで何も問題ないでしょうから、堂々と引用しましょう。

初めて自分の本が出たときには嬉しくて枕許において寝た、などという人がいる。むろん、こうしたことは、別に本でなくとも、例えば論文の類いでも同様で、初めて自分の書いたものが活字になったときにはとても嬉しいものである。
ものを書く仕事は4回も楽しめる。すなわち、①原稿を書き終えたときに嬉しく、②ゲラ刷りが届いたときに嬉しく、③その本や掲載誌が実際に刊行されたときに嬉しく、④読者等から反響があったとき(褒められたとき)に嬉しい、ということである。

 ― 友岡賛「ものを書く喜び」『三田商学研究学生論文集 2017年度号』


「読者」不在の私のnote。

以上で紹介した「あとがき」も、恐らく多くの人は読んでいないでしょう。私も偶々タイトルが印象的で読んでいただけで、普通の学術本のあとがきは余り目を通していなかった気がします。

そんな誰も読まないかもしれない「あとがき」で「ものを書く喜び」を書く。最高にロックです。私は痺れました。カッケー。

無論、私自身①~③の楽しみは既に味わっています。noteで思うままに書き上げ、推敲し、アップロードし、改めて自分で自分の文章を読んでみる。このような楽しみは媒体が紙であろうとデジタルであろうと享受できるものだと実感しています。そして意外にもそれだけでも一定程度満足している私がいます。

とはいえ、「読まれたい」「感想が欲しい」。そういう願望がないといえば嘘です。そりゃ誰かに読んでもらえるに越したことはないです。

もっとも、現状、私の文章力では読者を掴むことはできていません。
しかし、私はものを書く。書き続ける。

それは、いつか誰かが私の文章や考えを識ってくれるかもしれない。そんなまだ見ぬ読者を夢見て書いている。そんな気がします。

いつかその夢から醒めたとき、私はnoteを書くことを辞めるでしょう。

だからこそ、夢に浸っている間は夢を楽しみたいのです。

誰かが私の文章を読んでくれる日がくるまでは、私自身が唯一の「読者」になりましょう。

私は自分の思考を文字に起こして推敲する、そのプロセスのうちに自分自身と対話していることに気が付いたのです。

夢から醒める瞬間とは、私自身が私の「読者」でなくなること、なのかもしれません。


結びにかえて: まだ見ぬ「読者」に向けて。

果たしてあの「あとがき」を書いている時でさえ、友岡教授は「ものを書く喜び」を感じていたのか、それは分かりません。少なくとも誰も読まないかもしれない「あとがき」から、「読者等から反響があったとき」という喜びを得られたのかは、大変興味があります。

でも私は思うのです。

もしいつか、誰かが読んでくれたら。
もしいつか、誰かの心に刺さったら。

そんな日が一生来ないかもしれないし、いつか来るかもしれない。
「誰か」とは見知らぬ第三者かもしれないし、唯一私自身だけかもしれない。

しかしそれは、書くことなしには得られない「可能性」という、第五の「ものを書く喜び」なのかもしれません。


Fin.


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