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(1)意識の次元の旅を通して学んだ知識の泉!未来の数理を学んで、説いた魔法の数式宗教科学の融合した未来次元!永遠のいのちに、至る扉を開け!この世の未来は、あなた方自身が決める!地獄と化すか、天国になるかの選択は目前!クリック

推薦するnoteのリンクです。以下の本文も読んで欲しいです。



私は、2020年9月頃から、意識の次元の旅に突入したとしか言い様のない経験をし、様々なこの世の秘密や、未来の数理などを知り、学び、研究しました。意識の次元では、高く成れば成る程、行動が、制限、あるいは、慎重を要するものと成り、パソコンの数字、文字ひとつ、うかばれる様に扱わないと成りません。

たとえば、削除したら、他の数字を切り取り、違う場所に貼り付けて、一緒に生んであげると言う様に!

何故、私が、それら意識の次元の旅に突入したのが、9月であるかわかるかと言うと、カレンダーが、9月で、止まっているからで、この、2020年の9月のカレンダーには、宗教的、数理的、幾何学的、数学、科学、宗教的秘密が、沢山隠されています。

中央は、16日ですが、16は、1が、人、6が、ムを表わし、つまり、ひとの、ムで仏、を表わします。

9月のカレンダーの秘密は、後日にゆずるとし、わたしは、その9月から、一歩も、表に、出ていません。(入院するまでだった)

それは、コロナが、語呂合わせでも、567であり、4後、8までの、死後から、無限、末広がりの八色人の世界までの路のりであり、死後の世界であって、本来ならば、動く事や、飲み食い、作業等、一切、行えないのですが、ひふみ神示にいわく、大日月大神は、超未完成と成られたとあり、完成を超えて、再び、次なる完成を目指すのですが、超未完成とは、わたしは、調味完成を目指す事で、果てしない世界の味の完成を繰り返し、無限に、発展し続ける路のりであると、考えました。


そして、釈迦が、56億7千万年後、弥勒が、下生して、地上天国を開くと言った567でもあります。

また、コロナは、太陽コロナが、太陽の幕である事からも、解かる様に時代の壁、終焉を表わしており、コロナは、子路名、固路名、弧路名、であり、神仏、神々の子が、あゆむ、路のりの名、固まりである肉体の霊的成長の路のりの名、また、古きを復旧する為の路のりの名。

いく路のりの名、であります。

釈迦、曰く、人間は、生きたいと思うだけ生きられる。

すなわち、コロナに入った現在、永遠に生きられる可能性もあるのですが、その前に、学ばなければ成らない事や、対処しなければならない事が、ありますが、せっかくですから続きをお読み下さい。

わたしは、神の意識の世界や、弥陀、仏が、「ある」を逆に求めだしており、わたしが、生き続けている秘密について、探ろうと、色んな手で、探りを入れて来ました。


わたしは、今回の人生に於いて、無から生じ、今に至っている訳ですが、他の精神存在、意識的存在、霊的存在に言わせると、わたしだけが、何度も、生まれ変わり現実と言う「ある」の世界を生きており、他の者たちは、精神世界、霊的世界でしか、生きられず、肉体を伴う「ある」の世界に生まれ変わる事が、出来ないらしいのでした。

確かに、そこにも世界は存在しますが、希薄で、此処ほど確かな世界ではないらしいのです。

わたしの記憶によると、わたしは、ある世界で、座らされ、あっては成らぬと言われたのですが、わたしは、あるものは、あると、「ある」をひたすら求め、自己の宇宙内部に、「ある」の世界を築いて行ったと言う思い、記憶があり、仏教帰依とは、その世界で、意識が苦しんでいると、尺(しゃく)で、脳天をぶち、つまり、死や苦(しゃく)で脳天⦅皇天)をぶつ⦅仏)によって、今日を消え(帰依)させる事が、仏教帰依の本来の意味です。


有っては成らぬは、逆に言うと、なければ、成る。であり、外に世界を求めるのではなく、内に世界を求める事により、内に世界を築くと言う意味が、あったのです。


苦しくとも、楽しく舞えば、イスラエルで居ずらうベル、エズラ伊無知

われわれは、ある宇宙内部に存在する生命ですが、われわれが、帰るところは、宇宙そのものと成る事であり、そこに至る路のりは、果てしなく無限です。

われわれの、いのちは、ひとつの完成を迎えると、堪能し切り、飽き足りなく成るまで、その世界を味わった後、再び、新たな完成へと向かい、出発します。

実は、既に、真実の世界があり、そこでは、この世をひとつのシミュレーションとして生まれ来る世界も存在しております。

わたしの記憶によると、わたしは、キリストを2度経験した記憶がありますが、信じる信じないは、別で、記憶があるだけです。

方角の基本は、北と南であり、北には、「来た」と言う意味と、北得る「きたえる」の鍛える(きたえる)と言う意味合いがあり、「ほく」には、歩苦、保苦、など、苦を歩く、苦を保つの意味があり、「ぼく」は、僕、睦、墨の意味が有りますが、睦は、和睦(わぼく)の意味で、睦(むつ)まじく、暮す意味があります。墨とは、炭(すみ)であり、済、澄、住、を表わし、全てが済んで、終わり、澄み切った世界で、睦まじく、住み暮らす事を意味しており、始まる前の世界を表わしています。つまり、「僕」が、その様に暮らしていたと言う意味があります。


南には、「皆身(みなみ」」の意味があり、皆が、実となり、身と成る意味が、あります。

みな、には、また、御名(みな)の意味もあり、御名(みな)とは、神の名の事です。

みなみは、語呂合わせで373ですが、3には、参じる参(さん)の側面と、散り去る散⦅さん)の側面があり、また、1と2を合わせて、産むの産(さん)の意味もあります。7には、「しち」と、「なな」の言い方がありますが、「しち」とは、「し」の「ち」であり、「し」には、「~しなさい」や「~して」の様に、「する」事の意味と、「する事をやめる」つまり、「する」をせぬ。の意味があり、「ぬ」は、動作を否定する言葉で、それを「しぬ」と言い、「死」の意味と成りました。。

「ち」は、智、地、血、治、などの意味があり、智は、智慧(ちえ)の事であり、地は、大地の地であり、場所です。血は、肉体を流れる、栄養(英用)や、三祖(酸素)を運ぶ、液体(益体)であり、三祖とは、色んな解釈が出来ますが、ここでは、最も、簡単な表現で表し、父と母と、子、としておきます。

すなわち、「しち」は、する、しないの智であり、場所である地を指し、する、しないを、治める、「し治」を目指す事が、「しち」の最も大事な意義であります。

「なな」には、菜と、奈のふたつの名である「奈名」「菜名」があり、奈は、思い煩い考える、と言う意味があり、それが実って花と成り、菜(な)と成って「菜名」と成る。奈名から、菜名への、成長を目指すのが、「なな」の持つ意味、意義であり「奈菜」でもあります。


散より参じた参が、し地で、し、死、のし智を得て、奈名から菜名へと成長し、する、しないを、治めた「し治」を得て、「し地」で長年の時を過ごし、「しち」のいのちの全てを堪能しきり、参じた参が、新たなる、みなみに向かい、派智(はち)を得る為に、解散して八方へと、散り行き、再び、皆身(みなみ)と成るまで、ここを北として、困難なる「難⦅なん)」をあゆみ、難(なん)なき「南無」を目指して、「何(なん)」を得んと旅立つ事を、表したのが、「みなみ」であり、「なん」であるのです。

神とは、「申し示す」でありますが、神の「かみ」は、元々、「可身」を意味しておりました。

示し申すの神は、先祖霊に当たりますが、「可身」は、同時に創造主の意味もあります。

元々、創造主と神は、別の物であり、創造主は、未来からの神、示し申すは、過去からの神であります。

可身は、既に、未来の果てまで創造しており、その意味で、最初であり、未来であります。

可身とは、身を持つ事が、可能である事を言い表わすもので、「可身(かみ)」「固身⦅こし」「化身(けし)」」と言う道順があります。

身を持つ事が、可能に成った可身(かみ)は、次に、何にでも成れる「化身⦅けし)」と成りまが、その前に、「固身⦅こし」と成る必要があります。

固まりである、「固身(こし)」と成って、内部宇宙を観察し、内部宇宙に生まれ戯れる、仏(ぶつ)となるのです。

そうしてすべてに化けて、全てを経験し、また、「固身(こし)」に帰ります。

ほとけ、とは、ほとける、ほとく、の意味であり、固まった法を解き、ほといて、説法をし、法の固まりから、解きほぐし、古びた法から解き放ち、新たなる自由の旅立ち方をひもとき、あらたな完成である、大成仏を目指し、ひとびとを導く、はたらきをするのが、「ほとけ」の「ほとけ」たる所以(ゆえん)でありました。

存ずる、すべては、識によって、生じ、識とは、違いがある事に、気付く、感覚、感性、思考、思いであり、すべては、ただ、感じているものが、変っているに過ぎず、この感覚の好み、受ける感じによって、天国と、地獄が、生じる訳であります。

いのち、とは、意の智の意味であり、意の智恵(ちえ)が、いのちの基⦅もとい)であります。

意とは、意識、意思、意志、意図、意味などの意味であり、それらの智慧が、いのちを育み、生類のすべてを、活かし給(たも)うているのです。

身体には、至る所に、この意の智恵が働いており、そのおかげで、われわれは、意識せずとも呼吸ができ、栄養を肉や力の源として、意の智恵によって、変えられ、還元され、生きていられるのであります。

世界創造の秘密

すべての始まりは、「おん」からである。英語に於いても、ON(おん)する事によって動き始める。

「おん」とは、「音」であった。元々流れていたのは、「ん」である。

この「ん」を感じたのは、意「い」であった。「い」は、感じると、すべてに知らせる。最初に気付いたのは、「あ」であり、「あ」っとおもった。すると、すべてと違う気付きにより、割れが、生じた。こうして、「あ」は、吾(われ)を得た。その為、最初の「われ」の事を「吾」で表し、「あ」とも読む。

「あ」は、こうして「い」を知り、「合い」「会い」「相」と言う言葉が生まれる。やがて、「あい」は、「愛」をも意味するようになるが、すべては、最初「影夢(えむ)」であり、影の夢、つまり、闇(やみ)であった。やみは、後に八身⦅やみ)を意味する様に成るが、身(み)と言う音⦅おん)は、「ん」に含まれていた、Mと「い」の「 I 」が、引っ付き、M I (み)と言う音に成って行ったのであった。「ん」は、閉じた口のくちびるの形「M」と、鼻にかける「N」と胃部から発する息「U」で、とにかくとにかく、「吾」は、「われ」を得て、吾身(あみ)となった。つまり、一番最初の「身」は、吾身(あみ)であり、この「吾身(あみ)が、先にすべてを創造したのである。


吾(あ)は、非であった。つまり、すべてとは違う、すべてに「あらず」の「非ず(あらず)」であった。吾(あ)は、影夢(えむ)に絵夢(えむ)を見た。

その絵は、文字であった。影夢(えむ)を丸く囲う丸い [ O ](オー)の「O 」と、影夢(えむ)のMが引っ付き「も」(MO)ととなった。「も」は、じーっとしている「もじ」であった。「も」と言う字は、「し」に「こ」を描く文字である。「し」は、「しーん」の様に、静かな事を意味する。「こ」は、丸の上下でその弧(こ)を表わす。つまり、「し」っと静かな弧(こ)が、も、であった。それは、やみの「や」と引っ付いて、もやもやしだした。

そして、「も」の「し」がゆがんで、くるりと、まわり、「ま」と成った。

「ま」には、「O」とは、別の「まる」があり、このまるが、「あいだ」を意味する「間(ま)」と成った。「ま」は、「MA」であり、影夢(えむ)の吾(ア)である。影夢(えむ)の「ま」は、やがて、「魔」と表わさる事と成る。

この影夢(えむ)の魔(ま)を見る物は、「め」であった。「め」は、ME(め)であり、影夢(えむ)の絵(E)である。「ME(め)」

「め」と言う字は、本当は、「の」の字から生れ。「の」から飛び出す二つの線(神経)の先にあるのが、「め」の字であった。

「の」は、「のう」の見る「野」であり、「めのうち」が、「のう」であった。

「うち」とは、「有智」であり、智慧(ちえ)、智能(ちのう)の働きを智と言い、有(う)は、「ある」うちでも、在する「ある」を「有⦅う)」と言う。

存在に於いては、「有無」揃って「ある」であり、「無」も、また、「ある」の内であるのである。

なぜなら、すべては、「ある」であり、「ない」なら、あり得ないのであり、無は、存在の源(みなもと)、ソースであり、全てと同化している状態を無と呼んでいるのである。


もし、「ない」が、あり得たなら、その「ない」は、あるのだから、「ある」と言う事に成り、「ない」ではない事を、自ら証明してしまうからである。

この様に、すべては、「ある」のうちにあるのである。

こうして、吾(あ)は、めでみると知った。「る」とは、その中にとどまる事を意味し、「RU」であり、「あーる」に「う」であるが、「アール」とは、丸く曲がっている事で、Rの発音は、内側に舌を丸めて「あー」と発音するのだが、「う」を付けると、「う」が、「アール」の内側に入り、「る」と成る。その為、「る」には、中に入って留まる「る」「留」の意味がある。

そして、「ある」とは、「吾(あ)」の内側に入っている事を意味する。

吾(あ)は、闇の影夢(えむ)の中に、入って「ま」と成っていたが、闇には、夢気(むき)があり、中央のまるが、最初の位置(いち)だった。そのまるは、非途(ひと)であった。途中に非ず、元の位置であったからである。

身気(みぎ)のよい方を、(みぎ)とした。みぎは、D であり、なぜなら、丸Oの右は、Dであるからである。

D の吾(あ)は、DA(だ)であった。吾身⦅あみ)は、身気⦅みぎ)に進み、吾身だ(あみだ)であった。反対の夢気⦅むき)は、非だ⦅非D)、であるが、Rと逆のLであり、素途(そと)に向けて、アールを描き発音する。すると、「る」ではなく、「り」になる。その為、「みぎ」のはんたいは、非だり「ひだり」である。


絵夢(えむ)の絵が有る方を、有絵(うえ)、静かな「し」の多い方を、し多(した)とした。し多は、影夢(えむ)の済んだ後の夢気⦅むき)である。し多は、「の」の「NO」つまり、「の」であり、「ノー」である、「のう」の「O」が、有⦅U)に変わり、絵夢(えむ)が、貯えられ、「のう」は、「ぬ」「NU」と成った。その為、絵夢(えむ)が、消える事をし多のしになり「ぬ」に蓄えられ為、「しぬ」と言う。

また、絵夢が、見られない事を「絵ぬ」と言い、「の」についている、N を「エヌ」また、絵夢(えむ)を見ている、「ま」のMを「エム」と言う。

そして、絵夢は、癒め(ゆめ)だった。めが、癒(いや)されるからである。

吾(あ)は、絵夢(えむ)が、見れないと、エヌ(絵ぬ)吾(あ)であり、「NA」(な)であった。この「な」を「奈」で表す。

「奈」とは、思い煩い、考え悩むことである。


「ま」は、まだ、「間(ま)」であり、「真⦅ま)」でも、「魔(ま)」でもなかったが、考え悩み尽くすと、「し」が、「しん」と芯(しん)と成った。芯「しん」は、棒「ぼう」であった。「し」が、「芯(しん)」と成るまで待つ事を、辛抱(しんぼう)と言う。

芯の棒は、「し」の「S I 」を「S」と「I」に分け、「絵素(エス)」と「吾意(アイ)に分けた。

絵素(エス)とは、絵の素⦅もと)であり、吾意(アイ)とは、吾(あ)の意思や、意志、意図(いと)である。

そして、絵夢(えむ)が、見られない真相(しんそう)を明らかにし、真実の答えを導いた、

そして、絵夢(えむ)を見る為には、素途(そと)である素⦅もと)の途(と)つまり、道に向かって吾(あ)ある「アール」を描き、「り(理)」を得る「エル」必要がある事を突き止めた。

そして、「だ」の多い、「し」を考える意(味)の、多だ恣意(ただしい)理(り)の「ま理」を、「真理(芯り)」とし、真理に従えば、何でも可能であると理解した。


こうして、「ま」は、「間⦅ま)」に「真⦅ま)」を得て、自由自在に絵夢を操れる魔と成った。

魔が、絵夢を操る為には、息が切れる音「は」の「HA」の「H」に、「O」を引っ付けた「ほ」の「有⦅う」」で行う。

つまり、息が切れるまで、駆け回り、休憩して「ほ」っとする「ほ」に「う」を引っ付けた「ほう」を絵夢に掛ける「まほう」により、絵夢を自由自在に操る事ができるのだが、「H」は、真理を学び尽くした「叡智(えいち)」が必要であり、法を、熟知していなければ、成らない。

この様に、魔法は、真理を熟知した叡智によってなせる技であり、その種や、仕掛けが超自然の域に達した業である。

すなわち、絵夢に法を掛けて初めて成せる業であり、絵夢とは、この世に於いては、宇宙の事である。


宇宙は、吾身の絵夢であり、吾身は、宇宙の外から法を掛ける。

こうして、奈は、絵夢にくまなく広がる「は」に菜(な)を得て、「は菜」を用いて、可御理(かおり)「は菜」つ、「は菜⦅はな)」を、左可世⦅さかせ)て、自由自在の絵夢(えむ)を得て、恵夢(えむ)に変え、法法円だ(ほほえんだ)を得た。

「は(菜な)」は、「は」による花(は名)開いた考え。

可御理は、御(お)さめる事を可能にする理

左可世(さかせ)は、左(非だり)の世が、可能の事

円(えん)とは、丸い事だが、絵の「ん」であり、「ん」は、ひとつの結びであり、「あおう」を結ぶと「ん」と成り、円と成る。「あおう」は、「会おう」であり、「宴」「縁」の「えん」と通ずる。

「い」と「え」は、「意」と「絵」であり、意味から述べると、吾(あ)が、有⦅う)を得るのに「意⦅い)」が関与し「あいう」、有⦅う)から「おわり」御和理(おわり)の「お⦅御)」に至る夢(ゆめ)が、絵(え)で「うえお」、御和理(おわり)と始まりの吾(あ)を結ぶのが、「ん」である。「あいうえおん」。「ん」は、口を閉ざした唇(くちびる)の形、M と、鼻に掛ける、N そして、吐く息の、U を合わせ持つ音であり、英語の丁度中間のアルファベット第13番目と、第14番目に当たり、中央で分ける文字であり、N が、何も「得ぬ」M が、恵夢(えむ)であり、Mのひとつ前が、L (得る)である。
「追記2,024ー10/15
口は、吾寺(あじ)鼻(花)は、可御理(かおり)耳は、気苦(きく)、目は、身得る(みえる)肌は、間汁(かんじる)


御和理(おわり)は、和を御さめる理で、御は、すべてを、治める事の意味

イスラエルとイスラムの攻防であるが、意すら得る、と、意すら夢では、やむなき攻防」では、あるが、先にあったのは、恵夢の「夢(む)」であり、イスラムに、譲るべきは、イスラエルの方で、あるとおもえるし、大いなる国民として、世界のひとびとに愛され、由々しき国民と成る為にも、争いを止め、譲るべきは、譲るべきである。

吾身(あみ)の話は、後日にゆずるとして、ゆだやについて、述べてみたい。

ゆだやの、「ゆ」は、特別な意味を持ち、癒すの癒(ゆ)が、その真の価値であり、陀(だ)を癒す、弥(や)であり、あまねく、険しいがけを癒すのが、ゆだや、の使命であり、けわしいがけを癒すとは、困難な道ををやさしい道に変えると言う意味であり、イエスの「Y」は、ふたつを合わせ一つにする線からも分る様に、異なるふたつを、ひとつに統合する意味を持ち、イエスの、イは、Yのいであり、これは、ゆ、にも、い、にも成るユダヤの癒(ゆ)を象徴しており、少し日本語の話をすると、やいゆえよ、は、本当は、ゆあ、ゆい、ゆう、ゆえ、ゆお、を素早くしゃべる音であり、また、いあ。いい。いう。いえ。いお。でもある。


だ、には、また、仏陀(ぶっだ)の様に、仏教に関する陀(だ)があり、本来、仏(ぶつ)なる、「ほとけ」の、内部宇宙が、この世であり、「ほとけ」とは、「ほ」と「け」であり、「ほ」は、「保」という、「たもつ」であり、「け」は、「化」であり、「ばける」である。「たもつ」は、維持する意味もあるが、「多持つ」の意味が、あり、「安全に保つ」とは、安全を多く持つ事である。「ばける」は、「場け留」であり、「け」は、気⦅き)の得⦅え)であり、気を得る事を、「け」と言い、場である宇宙の、気を得た「場け」が、留まる事であり、「ほとけ」は、宇宙の気を得て留まる「け」を、多く持つ「ぶつ」である、

そして、ぶつは、部都であり、部が寄り集まった固まりである。部は、人間で、言うなら、細胞である。

陀を癒すとは、ほとけの「化」であるひとびとを、癒す事であり、苦をねぎらう事である。

苦をねぎらう国民である、ゆだやは、イスラエルと成った訳であるが、イスラとは、意素羅であり、神の意志、意思、意図、意味の素(もと)が織り成す世界であり、それを得るひとびとが、イスラエル人である。イスラムは、意素羅を夢に持つひとびとである。


そして、陀は、「だ」であり、吾(あ)が、身気(みぎ)の良い方にいる吾⦅あ)が、陀であり、最初のだを「あだ」と言い。「あだでかえす」事が、悪い意味であるのは、「あだ出帰す」からであり、つまり、「あだ」が、出て来たのに、帰すからである。

アダムは、「あだ」の「夢」であり、イブとは、慰撫(いぶ)であり、アダムである夢を慰め、いたわるのが、慰撫である、イブの意味である。

実は、アダムとイブは、「あだむといぶ」と言うひとりの女で、「あだむといぶ」とは、「あだ」の「夢⦅む)」の都(と)の「慰撫(いぶ)」という意味であり、最初に「だ」と成った「あだ」の「夢⦅ゆめ)」の都(みやこ=身や、子)をなぐさめ、いやす。のが、「あだむといぶ」と言う女の名であった。

アブラハムは、初め、アブラムだった事は、聖書にも載っているが、アブラムとは、吾(あ)の舞⦅ぶ)、つまり、吾の舞いが、織り成す吾身⦅網)陀(あみだ)の夢(ゆめ)が、アブラムであり、夢(む)を、「はむ」にせよと命じた可身の意図は、「は」には、「はち」つまり8に至る、「は」を「ゆめ」に持つことで、6である「夢」から、死んで「7(死智=しち)」となり、0「霊」から、繰り返す、アブラムから、無限のいのちに至る8「はち」である、派智(はち)の智慧(ちえ)を得させる意図が、あった。


意識には、五感である、味覚、臭覚、聴覚、触覚、視覚、と、精神、があり、ここまでが、夢の6までの意識であり、死ぬと、末那識(まなしき)に到達するが、末那識(まなしき)の本来の意味は、真名(まな)である、真の名⦅な)を頂く式⦅しき)に招かれる。ここまでが、7の意識あるが、第8識に、阿頼耶識(あらやしき)と言う識があり、本来は、吾羅弥識(あらやしき)であり、最初の「われ」である吾(あ)の網(吾身=あみ)羅にあまねく「弥」ゆきわたる識(しき)を得て、無限の意識に、意たる(いたる)第8の識を得させる為にアブラハムと名乗らせたのである。

識は、「しき」であるが、先ほどは、「可身(かみ)」「化身」(けし)」「固身」(こし)と述べたが、本来、身は、「し」であり、「かし」「こし」「けし」が、正しく、その「身(し)」に流れる気を、身気(しき)と言い、吾身⦅あみ)の世界「吾羅(あら)」には、死と言うものは、なかった。

元々、天である10の音⦅おん)」と、6の身気⦅しき)までの世界であった。


まず、非途(ひと)は、素の位置であるが、初めの意智(いち)つまり、「ちがい」を「感じる」事から、意智(いち)が、生じた。「ちがい」が、なければ感じる事が、出来ず、意は、働かない。「ん」と言う音⦅おん)を感じる事が出来たのは、「ん」という音⦅おん)が、あったためである。あるためには、ない時との違いがなければ、ありようがない。

つまり、「ある」を感じたので、意が、働いて、知らせ、吾(あ)が気付き「あ」っと思って、割れが、生じ、吾(われ)がうまれた。

「うまれた」は、本当は、「う、われた」である。

「う、割れて」「う」と「あ」に成った。その吾(われ)は、「うあ」であり、「わ」であった。形は、丸(まる)であった。

「わ」は、あなだった。あなは、吾名⦅あな)である。吾名の他は、吾名他⦅あなた)であり、有⦅う)であり、「U」ユーであった。

吾(あ)と意⦅い)で、吾⦅われ)すなわち、自分は、アイである、あなには、苦有気⦅くうき)が、「すー」っと流れた。苦有気⦅くうき)は、意気⦅いき)の為に必要であった。なぜなら、すべてである「う」の苦しむ気から、皆を救う覇気(はき)を得る必要が、すべてを感じすべてに知らせる意の智(いのち)には、必要だったからである。しかし、吾(あ)の気は、「あき」で「開き」が必要であった。

そのため、「すー」で意気が満ちると、「はー」と覇気(はき)をはきだした。

あなの中は、「い」が、すじをめぐらし、網(あみ)になっており、吾(あ)の「われ」は、吾身⦅あみ)であった。


吾(あ)は、影夢(えむ)の中に絵夢⦅えむ)を見て、それは、「も」が、「じ」っとしている「もじ」であり、「も」は、「こ」に「し」であった。「も」に影夢(えむ)のやみの「や」と引っ付いて、もやもやし、ゆがんで、くるりと、円を描き、「ま」となった。「ま」は、MA「ま」で吾(あ)の絵夢「エム」であった。「わ」に留まる「ま」は、「まる」であった。その為、MO「も」の「O」 は、まるであり、「わ」であった。「し」は、「SI」であるが、「し」は、「い」つまり、「I」のゆがんだ形だった。「い」が、ゆがむと「し」「SI」と成るのであった。すなわち、ゆがんだ意思、意志、意図、意味は、死(SI)と成る。そして、ゆがんだ「 I 」(あい)の裏側は、Jらしい=ジェラシーであった。



「も」にいたる、も途⦅もと)は、絵素⦅えす)であり、SU「す」から、「SI」「し」が出来、弧の「KO」「こ」と引っ付き「も」(こ+し=も)となった。その為、素「す」は、「も途⦅もと」」である。

吾(あ)は、「こ」の「K」に付き「か(KA)となった。「か」は、「可」であった。「じゅう」「じゆう」の「かず」を得たからである。「かず」は、「可図」であり、はじめの可図(かず)は、非途通(ひとつ)である。通る⦅とおる)途中に非ず、であるからである。通気⦅つぎ)、つまり、通るに居る気、通る気⦅とおるき)は、不他通で、「ふたつ」は、通るに居る他では、不(ふ)すなわち、他では、ないからである。つまり、通るに居る。通るに居るとは、あなである、「わ」の「O」の中の「他」に、居る。つまり、あなの外に出た意味

通気(つぎ)は、満つ通「みつつ」で、通るに居るが、満ちた。つまり、あなの外に出て絵夢が、いっぱいになった。

猶予がありません。取り急ぎお読み下さい。(当時、日本に危機がおと連れ貝塚中央以外ピカドンでなくなった。しかし、私の指示に従い、自分の居場所を貝塚中央の中の日本に居ると信じた者たちは、救われた」


素(そ)の通気⦅つぎ)は、世図都⦅よつつ)で、世界の図と都⦅身や子)で賑わう。

通気(つぎ)は、何時通⦅いつつ)で、時を決められる。

通気(つぎ)は、睦都⦅むつつ)で、睦まじい都⦅身や子)

奈菜都(ななつ)で、考えあぐね菜の花が咲き、都⦅身や子)が栄える。

八都(やつつ)で末広がりの都⦅身や子)

此処の都で、ひとそろえ、此処に都ができた。

十(とお)で、天空に舞い上がった。

以上が可図の全て!

賢し⦅かしこし)、可身(かし)、固身⦅こし)、化身⦅けし)は、ひとびとの暮らしを見て考えた。いつまでも、同じ暮らしをくるくる巡るばかりの、世界は、もう、吾来た(あきた)で、すぐに、同じ吾(あ)が、めぐってくる。

これは、遊び事では、ありません。早急に対応する必要があり、ここまでかきました。下記に従って下さい。


存じては、おりますが、現在、2021年1月に置きまして、今年は、仁王不意(におうふい)の歳であり、いつ仁王(におう)が、不意(ふい)に現われ、われわれを、窮地に追い込むか分からぬ歳であり、現に、現在、世界及び日本は、既に、大変な危機を迎えているのですが、それは、コロナの災害など、取るに足りない大きな危機であり、今、世界の各地では、大ごとが起きており、警官が、国民を大急ぎで、誘導して、避難させている情報が、動画で、ツイッターにあげられており、そのコメントが、気付いてないのは、日本だけだね!遅れいるね!と言うもので、日本だけ、その情報が、知らされていないのですが、それは、世界の黒幕たちが、日本のメディアを既に、牛耳り、多くの企業も、その傘下にあると思われるのでありますが、詳しくは、下部noteから、わたしのnoteに触れて頂く事で、今の日本の状況の一端でも、ご理解頂けるかと思いますが、事は、急を要する事態であり、その事は、下部noteの、第一番のnoteでご理解頂けると存じます。


クリック、タップする事で、noteをご覧いただけますので、何分早い対応をお願い申し上げます。

2023年6月5日地獄の果てから舞い戻り、ここまでを完成させましたが、当時の事情が気になる人は、下記BOXをクリック下さい。
ひきつづき、かし、こし、けし、については、下部をどうぞ!

なお、このnoteの拡散や、上記noteの拡散を急ぎますので、何分よろしくお願い申し上げます。

下部に、黒い枠の中に、このnoteの、アドレスを入力いたしますので、左から右にスライドしてコピーし、ツイッターのツイートの左端のマークをクリックし、そこに、このアドレスを貼り付けて、ツイートする事で、黒幕たちに気付かれぬ様に、拡散できるものと思いますが、黒幕の手したは、あらゆるところで、監視しており、拡散をバレずに行う事は、不可能に近いのですが、実は、手下や、多くの黒幕に配下にあるものも、実は、騙されており、黒幕たちは世界を支配すれば、多くのてしたも、奴隷の如く使うだけであり、役立たない者は、容赦なく葬り去ると言う、悪に徹した者たちであり、われわれすべての者が、一致団結してこの急場を乗り越えなければ、世界は、暗黒と化し、容赦なく使い捨てにされる世界へと、変わり果ててしまうのです。
再び、現在2024年1月9日
現在パラレルワールド世界に突入。滅びた後の事が、読み方次第で理解出来るテレビ番組もあったし、滅びた後の寂しい時代を1年間ほどすごした。
今と言う時は、時の最前線であり、全ては、完成に向かって進む為に、首切りの解釈済むと、フォローされて、勝ち組の記憶の中に残るが、刑を終えて時代は再び、スタートした。
死者の魂を、麦わら人形で、街中の電線に祀る村もあった。
すべては、おのれの世界の記憶の中だ!

シェアよろしくお願いいたします。以下ボックスが、このnoteのアドレスです。左から右にスライドしてコピーし、noteなどに埋め込んでくれると、助かります。

https://note.com/zaimu102a/n/n6484de3c603c

賢し⦅かしこし)、可身(かし)、固身⦅こし)、化身⦅けし)は、ひとびとの暮らしを見て考えた。いつまでも、同じ暮らしをくるくる巡るばかりの、世界は、もう、吾来た(あきた)で、すぐに、同じ吾(あ)が、めぐってくる。

賢しけしは、考えた!
だれぞ、化身(けし)に変えてみましょうぞ?
器は、どうする?
そのあとで!
こうして、化身⦅けし)が、増える事に決まった。
けし、とは、可身⦅かし)が、化ける身の霊体
肉から気を抜かれたら、腐り骨と化した。
こうして、死が入りし世界と成り、最初に化身(けし)と成りしは、
朕(ちん)だった。
ゆえに、賢しけしの真の名は、朕だった。
それゆえ、死者の出た時は、金を朕朕⦅ちんちん)鳴らし、真名(まな)をあたえて、身取り(みどり)の先公(線香)にまかせ、化夢利(けむり)を、苦癒(くゆ)らせ、男も、女も、元の音子(おとこ)の朕(ちん)の真名⦅まな)を頂く式をあげる事とあい成った。朕とは天子の事で、天皇のことである。
さて、この様にして、死の入りし世界と成り、このままでは、数が減る。
ところが、朕の印である朕宝(ちんぽう)は、「けし」される時のへその緒(お)みたいなものであったが、これを、入れて、気魂(きこん)を入植(にゅうこん)する道具に使う事と成り、その子宝の巣と成る様に、如体(にょたい)の股間をメスで切り巣を入れ、聖所の扉に戸を付けて、切り巣戸(キリスト)とした。
話が、順不同で申し訳ないが、朕(ちん)は、音子(おとこ)でこども、女(おんな)は、音名(おんな)でおとなであった。
発端は、朕(ちん)が現れたゆえ、罪が生じた。この音子と、音名との間を担当する役を差担(さたん)となした。








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ザイム夢我無罪
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