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お父さんメモ:VUCAを生きるには、何が分からないのかを見出す力と、自分を他に明け渡さない心

まだ全く理解できていない、三木清の人生論ノートに触発されて、お父さんは、お父さんメモなるものを書いておく。

まずはじめに、伝えておく。
晴れた日であろうと、同じ空の下で、悲しみや絶望に暮れている人がいる。夜はいっそう、様々な苦しみを携えている。月曜日を避けたくなって、枕に涙する人もいる。

子どもたちへ。
そういうときに、このメモを読んで、少しでも気持ちが落ち着くのであれば、本当に嬉しく思う。

「変化の激しい時代になった」といわれて久しい。
とはいえ、未だにsurviveするための能力が何であるかを見出すこと、そしてそれを身に着けることは難しい。

お父さんはここに伝えておく。
何が分からないのかを見出す練習が、きっとお守りになると。


まず、疑問・意見を表現する

大人を見ていると、「小学校入学したての子どもたちのような、疑問をすぐに発言する勢いは、どこに行ったのであろうか」といつも不思議に思う。大人になると、”自ら挙手をして、自分の意見を出していく”というシーンもあまり見ないのだ。授業参観で、子どもが手を挙げてしゃべる様を、大人たちは、「いいなあ」と羨望の眼差しで見ているのではないだろうか。

ここ数十年、この事態は変わっていないような気がする。VUCAの時代だと言われているにもかかわらず。

疑問や意見を表現しないで抑え込むことは避けたほうがいい。
疑問や意見を抑え込んでしまうと、口(くち)、すなわち、身体を動かさないことになるので、最終的に、頭も動かなくなるのだ。
頭の中で悶々とするのは止めよ。一人で書き出して問答することはまだマシであるが、口を使って他者に伝えることが最上である。

なお、表現方法として、音楽、詩、文章、絵画、漫画など、アートの形態を採ることもよい。言語に拘り過ぎてもよくない。怒りから沸き起こるような爆発にも似た表現は、人々の胸を打つ。

問いは、最上の価値

学生の頃、本を貸してくれと先輩に頼まれたとき、
「いや、ちょっとラインとか引いちゃっていて、メモで汚れちゃっているんですよ」と返事したら、「そのメモが僕の気づきになるからいいんだよ」と言ってもらったことがある。

何が分からなかったのか、という情報は、正解よりも価値がある。
他者の問いこそ、大いになる気付きにつながるからである。

アインシュタインが言ったとされる、「1時間のうち55分を問題定義に使う」というのは、何が分からないのかという情報の価値がいかなるものかを表している。

同様に、AIチャットボットの価値は、そのチャットボットに集積された質問データ(愚痴も結構、吐露されているが)にあると思っている。

まあとにかく、何が自分に分かっていないかという探求は、とても大切なのである。分からないことが定義できたら、質問をしてみよう。それによって、リンパの塊がごとき、思考の詰まりを取り去らうのである。

ちなみに、「もしAだとしたら、Bになってしまうのに、何でCなの?」といった類の問いは、至上の一品といえよう。

問題定義なくして解決なし、検証可能性なくして問題なし


(問いの話と問題の話は別の話なのだが、流れで書いてしまう)

質問や意見を述べたときに、「ごめん、何を問題と定義しているのかが分からないんだけど・・・」という指摘をもらえることは、とてもいい環境にいるということである。問い続けられることで、良い仮説が生まれることがある。

ちなみに、「デジタル技術の活用をしましょう」、という企画に多いのは、デジタル技術を触ることが目的となっていて、誰の何の問題を扱っているのかというイシューの定義が無いというものである。

問題が定義されていないので、解決策の評価をすることができない。AIの分野でいうと、機械学習モデルのパフォーマンスをどうやって計測すればいいのか分からないといったことが起こる。精度目標はおろか、どういった物差しを使うことが妥当なのかすら分からない。

このように、検証ができるかどうかというのも、問題として成り立っているのかを見極める指標となる。何を計測すればいいか分からないというような状態では、検証はいつまでもできない。検証するために物理的に多くのコストを支払うことになるってのも、あまりいい問題設定ではないのだろうと思う。

やっかいなのは、人間関係に関する問題である。
こればっかりは、「検証可能性がないから問題ではないですよね」と簡単に片づけられない。
「あの人、私のことが嫌いなのかしら?」という恐怖が沸き起こったときに、「例のあの人に聞いてみることができないなら、そんなの問題ではないですよね」と言い放つことは、お父さんにはできない。一周回って、それくらいの強い精神力があればいいのだが、なかなかそうも上手くはいかないだろう。この点について、以下に、おまじないを流れで紹介して終わりにする。

自分の中心を他に明け渡してしまわないように

VUCAの時代に、科学や工学の問いに向き合って問題定義していく時間は、とても豊かなものであると思うが、実際は、先ほど述べた人間関係の悩みを抱えて、問いにすら昇華できないというのが往々にしてあるのではないかと思う。

”○○が私のことを××だと思っているかもしれない”という悩みにぶちあたったら、ぜひ、自分の人生を振り返るときのことを想像してほしい。

「もっと、好きなことをやればよかった」
「人の言うことを気にせず、なんでもチャレンジしてみたかった」

恐らく、他人の目線、他人との関係に悩んでいるとき(家族の問題など、非常に深刻な人間関係の問題は除く)、上記のような後悔を口にしそうであるなら、「私は、私が気にしている人間の人生を歩んでしまっていないか」と、問い直していただきたい。

自分の中心を”自分が想像する”他者に占領することを認めてしまっている気分になってくるであろう。この状態を認めたままでは、実は問いを立てる元気もなくなっていることが往々にしてあるのだ。

自分で他者を呼び込んで占領させてしまっている状態を、「虚栄は自分の家にいないで他人の家に出入りしている」といった趣旨で、三木清は描写している。”自分の想像する”他者に占領させてしまっている状態も、虚栄心から来るものだと言えよう。

如何にして虚栄から離れられるか、それは創造によって、と三木清が表している。真似して曰く:

創造的な生活は如何にして送れるようになるか?何が分からないのかを見出す練習によって。


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