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お父さんメモ:子どもたちに伝える、健康について

まだ全く理解できていない、三木清の人生論ノートに触発されて、お父さんは、お父さんメモなるものを書いておく。

まずはじめに、伝えておく。
晴れた日であろうと、同じ空の下で、悲しみや絶望に暮れている人がいる。夜はいっそう、様々な苦しみを携えている。月曜日を避けたくなって、枕に涙する人もいる。

子どもたちへ。
そういうときに、このメモを読んで、少しでも気持ちが落ち着くのであれば、本当に嬉しく思う。

今日は、健康について書いておく。

病を得ると、なんで私がなってしまったのか、と苦しむことがある。病は、急に尋ねてくる。その突発性によるショックは大きい。しかも、病の発生確率を知ってしまうと、その数字でさらに苦しむ場合がある。何で自分に襲ってきたのか、何で今なのか。お父さんの経験上、理由はほぼ実在しない。この問いは、立てても答えがない。

発生確率などどうでもいいのだ。人生は、自分自身にとってのものである。自分の人生は、固有であるからこそ、同じ病を経験した人とは、深い繋がりがある。幸せが、自分の人生固有のものだと思うのと同じように、病も固有である。

健康という言葉は、病が全くない状態を指すのだろうか。お父さんは、若い時、健康という言葉すら意識していなかった。健康であるときは、まったく健康を意識しないと思う。「失って初めてわかる健康の有難さ」という言葉は、あまり気にしないほうがいい。
歳を取ると、健康診断で異常が見つかるというケースが増える。健康でないという診断結果としてフラグが立つ。これだと、まるで、人生は、失う方向につき進んでいるようではないか。そんな風に、人生を過ごしていくのかと考えるのは辛い。ここで、先輩たちがお父さんに教えてくれた言葉を紹介しよう。

多少の異常があったほうが、健康になれる

多少の異常が見つかると、それを改善しようとする。これによって、結局、身体のいろんなところの調子が良くなる、ということらしい。お父さんも経験済みだ。まあ、”失って”というほど、失っていないのだ。

病を得たとき、「自分は健康ではもういられないのだ」とか、「これからは、体に不都合が伴ってしまうのだ」と認識することによって、その認識で苦しんでいることに気づく。健康という言葉が勝手に、頭の中を走っている。少しでも気になることがあると、異常なまでに、これが実在しないことを証明しようとする。これで精神を摩耗してしまう。

よって、諸先輩の教えと自分の精神衰弱の経験を踏まえて、以下のように考えることにした。健康とはかくかくしかじか、という定義は存在しない、もっといえば、”健康”は無い、と考えたほうが、後々気楽かもしれない・・・。

病の名前、ネット検索したこと、すべて、自身に実在しているものかは分からない。病の最初のころに、恐くなってネット検索をすることはあろうが、何の科を受診すればいいか分かったら、スマホは遠くにやってしまえ。あとは、先生の話を聞いて、言われた通り薬を飲む。治らないのではないか、と考えたくなるが、自身が自身に要求していた健康レベルとか、能力のレベルとか、どんどん差し引いて、差し引いて、まあこれでいいじゃんくらいで考えるようにするといい。

気にすることで、病は、病気となる。病を得ている状態が、健康でないというのならば、不健康なのだろう。一方、いかなる病を得ようとも、「今日も安心して楽しく過ごせてよかった、僕は健康だ」というのなら、毎日健康でいられる。

健康は、頭で考えて作り出しているものだ。心と体は非分離なのに、心だけが体を相手に監視して、勝手に動いて作り上げてしまうものだ。一方、散歩をしてみるとすぐにわかる。体が喜び、一緒になって心もはずむ。言葉には言い尽くせない喜びがある。言葉そのものの存在を悪く言っているのではない。言葉が勝手に走ってしまうことを憂いている。

七輪や焚火を囲んだときのことを思い出してみてほしい。夕方になるとますます感じる、体を貫くような、あの熱線。七輪の炭の色のグラデーション。線香花火でもいい。夏の夜に、静かに滴りながらも、自由を得て四方に舞う光。あのとき、言葉には表せない喜びを感じたと思う。病を得ようが得てなかろうが、体に直接語られるものは、心を安んじるのに十分である。「心に火を灯せ」、という表現は、体も反応して温まる、素晴らしいものだと思う。

「まあ、大丈夫だよ」と、無理強いはしない。
自分に投げかける言葉のせいで、苦しんでいるのかもしれないと、頭の片隅のほうから、思い出してくれれば、ありがたい。

では、また次の章で。




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