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本屋の閉店を見てきた話

生まれ育った地で一消費者として、物心ついてから二十年以上本屋に通い、数店舗の閉店を目にしてきた話を書こうと思う。

一つ目は大型スーパーにある小規模の書店。ここでは高校生の時に雑誌、漫画、学参等をよく立ち読みしていた。日常に溶け込んでいた。しかし周囲に競合店舗ができてから振るわなくなったことは、同じフロアで通っていた美容室から聞いていて、いつの間にかその書店は閉店していた。他のテナントが次々と撤退していくなかだったようだ。

スーパーにある書店に岩波文庫が立ち並ぶことが稀であるように、かなり大衆向けに振り切った陳列だった。ヤンキーが比較的多く、ブルーカラーの街、お世辞にも住みよい街とは言えない。スーパーやショッピングモールにある書店は、その地域の教養を量るバロメーターの役割を果たしていると思う。岩波文庫を取り扱い、さらに面陳されている、そしてカバーが経年劣化していくのがありつつも、誰かが買い続けている。そういう街に僕は住みたい。

もう一つは駅ビルのワンフロアをすべて使った大型書店。これは十五年以上通っていた。出かけた帰り、会社の帰り、そこへ行って何気なく時間を過ごすことが、実はかなり息抜きになっていたことを知ったのは、閉店予告の張り紙を見てからだった。本当にショックだった。ここに行けばだいたい揃うという所だったが、この十年ほどだろうが、御多分に漏れずヘイト本の陳列が増えていたのはがっかりしていた。それでも良心的な渋い本を売らんとする書店員の魂は、陳列から感じていた。通った回数でいえば二、三百回だろう。

この書店に行くとだいたい知り合いには遇わない。知人、友人のほとんどが日常生活で読書に関心がないからかもしれないし、単に僕がフリークなだけかもしれない。それはそれでシェルターというか、疲れた時に立ち寄る場所、つまり自分の居場所でもあった。
その上階に東急ハンズがあって、書店のレシートを持っていくと割引されるシステムだった。書店とハンズは間違いなく僕の生活の質を高めてくれていた。

そして閉店は、そういう何気ない日常にボディーブローのようにダメージを与えていたことに気づいた。日常が崩れることは精神的なところよりもっと深いところで変化が起きているようで、僕にとっては、なかなかな環境変化だったわけだ。
これから先、そういうことが、いろいろな分野で起こるかもしれない。「新しい日常」という名のもとに。その時、いま書いたようなロスに浸る暇はあるのだろうか。■

写真は『本を売る技術』(谷部潤子著、本の雑誌社)。買ったけど読んでいない本を読みたくなる感情がむくむくと起き上がるのは何なのだろうか