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フェイスブックの居心地考:世間体と社会性のはざま

久方ぶりにフェイスブック(Facebook)を開いてみると、周囲の投稿が沈黙していました。一斉にパタッという感じです。

以前の私には、いろいろと投稿していた時期がありました。
その頃も、周囲の多数は、いいねを付けるだけで自分で投稿する人は稀でした。次の日、会社でリア友に会うと「あの投稿よかったね」と言われ、ならいいねくらい押せよと思ったり。
ツイッターで呟きが一つもないアカウントは怪しいものですが、実名のフェイスブックではよくあることです。

そういう、人の投稿ばかりをウォッチングする、うす気味悪さからか、私はフェイスブックから遠ざかっていきました。

フェイスブックは、使う人のリテラシーの違いがよく現れると思います。
実名のコミュニティだけに、学校の教室の空間のように、TL上にコミュニティとしての同調圧力等の「空気」が形成されます。

私が運用していた当時のフェイスブックのリア友では、もともとの知り合いどうしのつながりを維持するための「世間体」を重んじるタイプが多く、知らない人と出会って社交する「社会性」を重んじるタイプは少なかったのかもしれません。

私は読書を中心に前者を楽しみつつ、例えばイスラエルの人と趣味のことで交流するなど、後者の好奇心を持ちつつといったところでした。

(上記は、演出家の鴻上尚史さんがよく言われている「世間」と「社会」から着想を得ましたが、文脈上、分かりやすいように体とか性をつけました。『「空気」を読んでも従わない』岩波ジュニア新書等を参照)

この点、noteは誰でも見れますが、「書く人」が集まっています。自分の思いや意見を表明し、見知らぬ他者とつながろうとする。よりリテラシーの篩(ふる)いにかけられています。今はこちらのほうが居心地がよいメディアです。■

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