ピザトーストのピは、ピーマンのピ
乃亜さんの記事の冒頭を読んで、思わず前のめりになってしまった。
全然煎じ詰めすぎじゃないですっっっ!! と、鼻息荒く首をふる(そしてその勢いのままに、記事へコメントを残す)。
乃亜さんのこういう食べもの考察、大好きなんだよな。
ピーマンの苦みによって、これまで食べてきたピザトーストの記憶が蘇る様子があざやかだ。ああ、ピザトーストが食べたい。
いったい私はピザトーストのピーマンを愛している。
昔は違った。ピザトーストの主役はなんといってもチーズと加工肉で、ピーマンやらたまねぎやらの野菜が入っていると、別になくてもいいのになあ、なんて思ったものだ。それがこうして年を重ねてみて、ピーマンの良さに気づくなんて。
だいいち、あの佇まいがよい。
ピザトーストに乗せられたピーマンは、たいてい輪切りにされている。輪切りにされたピーマンは、みどりのクレヨンで描いた花みたいな見た目をしていて、チーズの黄色がかった白色の向こうにその輪郭が透けると、なんともレトロで可憐なのだ。
千切りや拍子木切りのピーマンでは、あの可憐さは絶対にあらわれない、と思う。バジルやなんやといったハーブ類の緑でもだめだ。おしゃれになりすぎる。なんの変哲もない食パンにちょっと赤すぎるトマトソースと、白っぽいチーズと、輪切りにされたピーマンのポップな緑。その組み合わせでないと、出せない風情がある。
そうしてノスタルジックな見た目を演出しつつ、単なる飾りには収まらない存在感があるのも、ピーマンのいいところ。
トマトソースを吸ったふわふわのパンと、まったりとコクのあるシュレッドチーズの組み合わせに喝を入れるように、しゃくっと小気味よい食感が奥歯に響く。熱が入ってもなお豊富な水気と、さわやかな苦みが乳製品のまろやかさを引き立てて、またひと口、トーストをかじりたくなる。
そう、ピーマンがこんなにみずみずしく高い香気をもった野菜だなんて、子どものころはちっとも気づかなかった。
我が家でもときどき、ピザトーストをつくる。5枚切りの安い食パンにケチャップをうすく塗って、シュレッドチーズをのせて焼く、素朴なやつだ。親しみを込めて、ピザト、と呼びならわしている。ピザト食べたい、とか、明日の朝ごはんはピザトにしよう、とか。
急いでいるときは具なしで作ったりもするけれど(充分おいしい)、多幸感がほしい休日の朝などは、何を乗せようか、と冷蔵庫の中を覗く。一気にジャンクな味になるウインナーもいいし、食パンとチーズに挟まれてしっとりと火が通ったベーコンの、独特の風味も好き。玉ねぎを薄くスライスして乗せると、パンチが出るよね。おっ、アンチョビなんてものもあるよ。
でも、ピーマンを乗せることだけは最初から決定している。
野菜室からひんやりぴかぴかしたピーマンを掴みだして、つめたい水で洗い、ヘタの部分を切り落として種とワタを除く。ここで失敗すると身の部分が破れて、きれいな形の輪切りにならないから慎重に。
下ごしらえをしたピーマンをまな板の上に横たえ、包丁を入れる。どれくらいの厚みにするかがいつも悩みどころ。分厚い方がより食感やみずみずしさを楽しめるけれど、見た目のうつくしさを追求するなら、薄く切った方がよい気がするのだ。でもたいていは名より実を取って、厚めに切る。
あざやかな緑色の輪が途中で切れてしまわないよう、手に力が入りすぎてピーマンを潰してしまわないよう、そうっと包丁を動かしているとき、ああ私はこれから焼き立てのピザトーストを食べるのだ、それもピーマンを思うさま乗せて、という喜びがこみあげてくる。普段輪切りにすることがあまりない野菜なので、動作そのものがピザトーストと連動してしまっているようだ。
ああ、この幸福感たるや。
もはやピザトーストのピは、ピーマンのピ。そう言ってしまっても過言ではないのでは!
いや過言だよ。ひとりでにやにや笑いながら、ケチャップを塗りたくった食パンへ輪切りのピーマンを配置する。バランスよく、どこを齧っても歯がピーマンに触れるよう。
同じく輪切りにしたウインナーも乗せて、最後にシュレッドチーズをたっぷり。チーズと具、どちらを先に乗せるかは議論が分かれるところだけど、お家で作るピザトーストの場合は、チーズ後乗せが好きだ。そのほうがチーズの焦げ目がたくさんつく気がするから。
トースターのいちばん高い温度設定で3分、赤い光に満ちた庫内をわくわくと見つめる朝、私は決まってその日が完璧な休日になるであろうことを確信する。みずみずしい緑の上で、チーズがじりじりととろけていく。
苦手だった野菜が大好きなピザトースト、ひいては幸せな休日の象徴にまで上り詰めるのだから、大人になるってなかなか素晴らしいことだ。