タイ料理に吹く風のこと
タイ料理が好きで、よく食べる。
大阪で働いていたころは、通勤の乗換に新大阪駅を使っていたので、改札内にある「チャンロイ」という惣菜店でしょっちゅうテイクアウトをしていた。野菜と海老のカレー炒めや、ガパオライスや、レモングラス風味の鶏の唐揚げや、皮をカリカリに焼いた豚肉のスライスや。
タイカレーも好きで、テレワーク時のお昼ごはん用に、「ヤマモリ」というメーカーのレトルトを買い溜めしている。ココナツミルクが効いたグリーンやレッド、ごろごろ入ったピーナッツがうれしいマッサマン。どれも、レトルトとは思えないくらい本格的な味でおいしい。唐辛子という意味らしいプリックカレーを試したら、唐辛子だけでなく丸ごとの黒胡椒がごろごろ入っていて目を剥いた(とんでもなく辛かったけれど、おいしかった)。
お店に入って出来たてを食べられる、というときは、いろいろ迷った末、いつもパッタイを頼んでしまう(私のタイカレー経験値がレトルトに偏っている理由は、これ)。麺の食感が、出来合いのとはぜんぜん違うのだ。オレンジと薄茶のあいだのような色合いに染まった甘酸っぱいもちもち麺と、砕いたナッツの組み合わせが大好き。
だから勤め先のほど近くにタイ料理屋を見つけたときも、すぐにいそいそと出かけて行った。
仕事を早く終わらせた金曜の夕方、まだ明るい時間。雑居ビルの狭い階段を登ると、優しそうなおじさまが迎えてくれた。
「メニューはこれね」
「お水をどうぞ」
「調味料、これが辛いやつで、こっちは酸っぱいよ」
穏やかな雰囲気とは裏腹のきびきびとした身のこなしで、かいがいしく世話を焼いてくれる。
メニューを眺めると、知らない料理名がいっぱい。かなりの本格派のようだ。かろうじてパッタイの文字を見つけたので、ひと安心して注文する。あと、シンハービールも。
パッタイを作るのに少し時間がかかるそうなので、さっぱりしたものも食べようと「海老とハーブのサラダ」と説明書きのあった、プラークンという料理も一緒に頼んだ。パッタイと具材が被りそうだけど構やしない、海老は大好きだ。
ちいちゃいガラスの冷蔵庫にぎっしり詰まったシンハービールの一本が、グラスとともに私のところへやってくる。よしよし、よく来たね。そして「ビールご注文の方にサービスです」と、小皿に入ったナッツも! 大盤振る舞いだ。
暑い国のビールの淡く澄んだ金色は、あかるいうちに飲むと外の日光を集めてグラスに入れたみたいな気分になるところが好き。ナッツをつまみながらちびちび飲んでいると、あっという間にプラークンがやってきた。
たっぷりの生野菜と海老が積みあがった頂点には、焦げたような色の唐辛子が二本。これ、結構辛いのでは。
ちょっと警戒しながら、青々とした葉野菜と大ぶりな海老を一緒に噛み締めた瞬間、身体じゅうにぶわっと爽やかな風が吹いた。
すうっと突き抜けるミント、レモングラスの鮮烈な香りに、甘やかなバジルの後味、パクチーの青い匂い。私が葉野菜だと思っていたものは、どうやらほとんど生のハーブだったようだ。
ごく浅く火の入った海老はほとんど生なのにぜんぜん臭みがなくて、ぶりんぶりんの噛み応えと共にしたたるがごとく旨味が滲む。そして駄目押しに襲来する、容赦のない辛さ!
いそいで飲んだシンハービールが、きれいな泉みたいにおいしかった。
それからというものの、「タイ料理」と書かれた看板を見るたびに、あの日身体のなかを吹き抜けた、複雑で、薫り高くて、あおく透明な色をした風のことを思い出すようになった。完璧な風を吹かせてくれるお店はまだあのお店のほかには見つけられていなくて、その風が恋しくなるたびに、薄暗く狭い階段に足を掛けている。
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