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自分、という枠組み

“自分ひとり” はほとんど無力だ。その人にどんな能力があろうと、1人では何も生み出さない。どうしても他人の力は必要だ。
今回は、様々な領域の “他人” と協力して街に魅力を与え続けている 田中元子さんの記事を読んで。『個人も組織も、同じだと思う。自分を超えるって、勇気のいることだ。ホントは誰もが、フツーにやってることなのに。』より、私の解釈と感想。


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東京五輪が終わった。団結の祭典。多分。

私は ほとんど無知の完全な素人だけど、時期だけ見ても、熱狂よりは逆境だったと感じる。東京開催が決まった当時のことを、内藤 廣氏* が振り返る(本記事 最下部リンク)。
* 内藤氏は、白紙撤回された新国立競技場の旧整備計画で、国際デザイン競技の審査委員を務めた。

当時を思い出すと、東日本大震災の傷跡が残っていた時期だ。原発事故は収束するのか、復興の見通しは立つのか・・・。そうした空気のなかで新国立のデザイン選定が始まった。正直な話をすると『五輪が来なければ新国立は建たない』と思っていた。震災復興に力を入れており、『防潮堤をどのようにつくるか』などを真剣に議論していた最中だった。頭の中の3分の2は復興に振り向け、残る3分の1で新国立と事務所のことを考えていた。

 震災の現場にいると、(2020年の)東京五輪は無理だろうなと感じることがあった。ただ、東京に誘致できれば日本に違う風が吹くかもしれない。だから新国立デザインの審査委員会も頑張ろう。(2013年の)立候補ファイルの提出に間に合わせよう、と時間の制約のなかで最善を尽くした。

実際には、懸念の数だけが増えた。

離れろ、力を合わせろ、繋がろう、離れよう。

2020年の混乱の中、田中さんはこの記事を書いた。疑念と苛立ちを込めて。

新国立競技場の建築にあたって、ザハ・ハディド氏のデザイン案が選ばれた**。
** その過程は内藤氏の記事へ(本記事 最下部)

そして、白紙撤回された。

オールジャパン体制で行く。ザハ案はやめる。
私には真偽が確認できなかったものの、こういったニュアンスで伝わっている部分もあるようだ。

もし誰かがこのように伝えていたとしたら、明らかにおかしい。著者はそういう感情だったのかもしれない。



彼女は言う。

他人は全員、自分を超えている。個人だけでない。まち、市町村から企業、国家まで、あらゆる組織は人間の相似形だ。

分子が集まってアミノ酸を、アミノ酸が集まって細胞を形成するように、集まることで物質は“個体”や“組織”としての働きへと変化する。
人間が集まったこの社会も同じだ。

冒頭の話。
“自分ひとり” はほとんど無力だ。他人を頼れ。
「他人は全員、自分を超えている」には、そういう意味があると思う。



彼女は続ける。

自分超えの力を知っているひとは、自分以上の結果を出せる。自分を組織と変換しても、同じことが言える。コンペやコラボレーションは、いい例だ。自分たちでは思いつかないようなものが欲しいから、つまり自分超えしたいから、やるんだろうに。

数々のコラボレーションを手がける彼女は、強い説得力と共に語る。ドメスティックな価値観を拡張する絶好のチャンスだった、逃すことのリスクに向き合わなかった、と。

価値観の拡張には、勇気がいる。しかしその勇気こそが必要だった。勇気から生まれた熱量は、新型コロナのパンデミックなど、前向きに乗り越えられるだけの力があったはずだ。その機会を失った今(2020.5)の日本は、なんと白けたことか。彼女の文面からは苛立ちが伺える。


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もう一度、社会から組織や個人へ話を戻す。
自分、という枠組みは、ちっぽけな存在だ。今の私が1番痛感している。私が何をしようが、何も生み出さない。家族、友人、仲間、上司、部下、顧客、、。何らかの関係において、何かが必要とされて初めて、意識的/無意識的に何かを生み出すんだと思う。そういう意味では、人間関係というコラボレーションの中で “私” が存在し、維持/成長しているといえる。


コラボレーションには「自分を超える」機能がある。超えるには多少なりとも、勇気がいる。しかし、五輪でやらなかったこの「自分超え」は、日々の人間関係で誰もが行っていることだろう。できるはずなのに。
記事はそう締められている。



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果たして、“五輪” という “世界を一つにする” 出来事は、オールジャパン体制で良かったのだろうか。その疑問は、まだ晴れない。

☺︎ 本記事のインスピレーション

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