バズる社会で展覧会を「ひらく」には
ルール?展がバズった。ご存知の方も多いだろう。Instagramでポップに取り上げられ、これまでにのべ5万人以上が訪れた。結果として、主催者の想定を遥かに超えるパブリックな空間となった。ルールを取り巻く社会構造が見え隠れする、良くも悪くも難しさを感じざるを得ない複雑な場だと思う。
ルールって嫌だ
ルールというのは、押し付けられている感じがする。誰のためなんだろう、誰得なんだろう。そう考えたくなるルールによく出会う。例えば校則。画一的な女子像に多様な女性を当てはめ、押し込んで潰してしまう。何も悪くない先天的な茶髪の子を、わざわざ黒染めさせる。こういう話題で初めに敵になる話だ。
一方で、「何かに従って動く様が健気に見える」という感性も我々にはあるという。美しく整えるためのルールに快感を覚え、揃えたい気持ちに駆られる。秩序立ったものは確かに安心感がある。
ルールの両側面を気にしながらも、ネガティブなイメージを、作品を通じて鮮やかに乗り越え、ポジティブに捉え直そうと始まった。
ルールの実践で感じるものを尊重する展覧会。ルールは最低限で設定した。自分の見えていない「相手の世界」を感じ取って議論してほしい。相互行為的な、動的均衡の中でできあがるルールを体験してほしい。そういう目的があったという。
本来と実際
実際には、どんなことが起きていたのか。
例を1つ挙げてみる。会場には『自由に使って、自由に移動させていい単なる無垢の箱』がある。「動かした後立ち去ろうとしたら、別の来場者に元に戻すように求められ、不快だった」と苦情が出た。これは立派にルールを体験した例として、面白さを感じた。自分と相手の信じる無意識のルールが拮抗し、相手が常に「同じ条件とは限らない」と認識する場面である。
他方で、他人への迷惑を顧みない行為も目立った。写真を撮るために通路や作品を塞ぐ来場者、他の展示の前になす列、作品を叩いて破壊する来場者。ルール以前に「マナーやリテラシーを共有できていない層が、マジョリティになってしまった」と主催者側は悩まされていた。
ルールの更新会議では、特に後者について話が及んだ。急激にメジャー化して、想定外にパブリックになった今回の展覧会。鑑賞しにくる人、体験しにくる人、遊びにくる人が混在し、複雑に絡み合う。場の作り出すザワザワした空気感により、来場者の一部が匿名性に甘んじた行動をとっているのではと分析する。そこからは「やっちゃだめならルールにしてよ」と声が聞こえてきそうだ。エリートやカリスマなどの万能な設計者に頼りきってしまう、極めてカロリーの低い考え方が垣間見える。エシカル(倫理)とルールは不可分だと、会議は締められた。
「ひらかれた」ということ
自由に見てもいいんだよ。でも、他の人の自由を奪う自由は無いんだよ。
これは、別の展覧会でスタッフが子供にした説明だという。わかりやすくて難しい。絶妙な説明だと思った。
更新会議(公開ウェビナー)は、ディレクターや作家による議論だったこともありパンチラインが飛び交っていた。どうにも追いつかない、考える隙もない話だった。まとめるのに丸1週間かかり、それでもまだ咀嚼できていない。また今度、自分の言葉に編み直したいと思った。
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