【現在と古典】『だから古典は面白い』(野口悠紀雄)
1.簡単な所感
本書はいわゆる読書論とエッセイのハーフ的なものである。読書論における考察では、タイトルからも分かる通り、「古典」を進めている。著者曰く、古典は自然淘汰を乗り越えている点で必然的に価値が高いということらしい。それは直感的にもそう思う。ただ、著者の言う「価値」とは何なのか。そこを簡単にでももう少し触れたかった。そして、(著者は軽々とやっているが、)古典から「価値」を得るのはそう簡単なことではないので、その前段階についても軽く触れてくれたら親切だったように思う。
・ 付け足しのメタ的な批判
また、ここからは内容ではなく書籍の形態に関する話になってしまうが、エッセイとするのか細かな読書論とするのかはっきりして欲しかった感がある。著者が読んだ本を振り返ってためになる話をしていくのは良いのだが、それは結果が示されているだけで「なぜ古典が良いのか」という根本の部分には差し迫りにくい。最終章では一応まとめられているが、ならそこを最初に持ってくるであったり、そこを深堀りしてそもそも何故読書をする必要があるのかも伺ってみたかったように思う。
2.著者が言う「価値」とは何か。
基本的に文脈から読み取るに、著者がいう価値とは「ことの核心を的確に突いている」ということだろう。古典の著者は人類で上から数えて何番目かというくらいの洞察力や思考力に秀でた人であろうから、古典はそのような価値を多く含んでいる。僕は孫氏の「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という言葉が好きで、迷った時は一度この言葉に立ち返るようにしているが、これも戦略・戦術面における核心を端的に表している。
3.「古典」を「読む」難しさ
ただ、上で書いた孫氏の言葉くらい分かりやすく端的ならいいのだが、現実として古典から価値(エッセンス)を得るのは相応の努力や能力を求められてしまう。
著者が本書で述べていた現代でも通ずる価値を探り当て自分のものとするためには、
①まず現在・現実の問題を的確に捉えたうえで
②古典の内容も良く理解し
③再度その共通部分・問題の核を考える
といったプロセスを踏まなくてはならない。
もちろん、古典を読むのを端に目的とするのであれば②の過程だけを行えばいいわけだが、そこから「価値」を得ようと思えば、間違いなく①や③といったことも必要になってくる。
著者の野口氏は、80近い御年でもGoogleドキュメント、YouTubeやTikTokと言った用語を当たり前のように駆使するのだが、これは①を極自然にやっていることの表れだろう。すなわち現在に対する様々な問題意識や感覚を鋭く持っている。そのうえで②も味わうからこそ、ようやく③に進み、本書にあるような野口さんが得た「古典からの価値」が紹介できる。古典を「読む」のであればこれは意識した方が良い。
もっと言えば、得られた価値よりもその過程を踏む運動の方が応用の利く思考力として重要なものになってくるかもしれない。本書では聖書や『マクベス』から説得の技法や人間操術の重要な引き出すが、正直それが正しいというか納得感があるかという微妙である。どちらもちゃんと読んだことがないので、当然といえば当然であるが、そう考えた①~③のプロセスは血肉となって身につくので問題ない。
4.現在(いま)を見つめて始めて輝く古典
僕がまともに向き合った古典は人から勧められた「方丈記」である。(その方も現在を軸としつつ古典の重要性を説いていた。)その時の僕はそこにある古めかしいが風流な香りをこそ楽しんだが、得られたものは正直その程度であった。今振り返ってみると価値を炙り出すための①や③といったプロセスが抜け落ちていた。特に①に関して、もしこれを読書という面に限定して考えるのであれば、本書では貶されているような現在の生産者論理に従ったような有象無象も読まないといけないだろう。多分、著者の野口さんも色々と文句は言いつつも、そのような本に多く触れてきたことは間違いない。早い話が、古典あるいはそれに準ずる価値ある書籍を読もうと思うのなら、卑近なところからも固めてステップアップしなくてはいけない。