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大学の教職(国語)の授業をしているお話 その④

今週は、いくつかの仕事と仕事以外のアレコレが重なったので、授業までに記事を上げることができなかったんですよね……
授業前に記事を上げることでイメージトレーニングになっていたのですが、まぁ、仕事が回らなくなりかかっていたので仕方がない。事後ですが授業のご紹介~

教職課程の講義「中等教科教育法国語Ⅲ」の第5回

国語の学びから離れて「みなさん部活動って何してました?」という問いかけから入りました。

学生さんからはバラエティーに富む返答で、中興の部活って、文化的スポーツ的体験をけっこうな種類提供しているんだなぁと実感しました。

わたしがお話したのは「リソース(時間とお金)」の観点から見た際の部活動。特に教員側からのそれです。

スポーツの部活の顧問を務めると、「審判」がつきまとうことがけっこうあります。「帯同審判」といって自チームが出場する場合、審判員を提供するという条件が課されることです。高校よりも中学校でその傾向は顕著です。

わたしはバレーボール、サッカー、バスケの顧問を務めてきました。なかでもバスケの顧問歴が長く、必然として審判の資格を取って笛を吹いてきました。

資格を取るのにはお金がかかります。資格を取った後も毎年登録料がかかります。審判として経験を積み上位資格を取得すると、自チームが負けてゲームがなくても会場へ足を運んで審判をすることとなります。

この「時間とお金」に見合うなにかが得られる、あるいは補填されるのかというと、目に見えるものはありません。審判の経験が実技指導やチーム戦術の指導に生きるとか、審判で知り合った他チームの顧問に練習ゲームを頼みやすくなるとかはあります。

それに、審判はもちろん実技指導ってその競技を経験していないととっても難しいです(わたしだって吹奏楽部の顧問しろっていわれたら逃げ出したくなる)。

部活の顧問は今も構造的な問題で個人の力でなんとかできるレベルを超えていると思います。新卒者が「その顧問できません」ってとっても断りにくですよね。だから構造的問題。

その構造的問題がなくなっていく方向に動いているのが現状です。だから、みなさんが大学を出るころには少し個人へのストレスが軽減されている可能性があるよ、と伝えました。

さて、授業です。今回は古文を教材に「生きて働く知識技能の習得(教員→生徒)」に軸足を置いた内容としました。

「国語科の学びの他の教科にはない特徴って何だと思う?」が最初の問い。

人間の良い面も悪い面もひっくるめた様々な姿を人間が生きた物語を教材に取り扱うことができるのが国語科の学びの特徴です。

例えば、仏教で「三毒」とされる「貪・瞋・癡」。欲望・欲求、怒りや憎しみ、無知や無明、そうした人間のあり様を登場人物が「生きる姿」から知り、向き合い、考えることができる。それが国語科の学びの他教科にはない特徴です。

そうした人間のあり様は「ことば」で表現されています。だからことばの意味を知ることがとっても大切だという理屈になる訳ですが、ここで注意が必要なのは、「大切だからまなべ」という押しつけ・決めつけを授業の方法として取ったらおもろい授業ってできないんじゃないかなと立ち止まることだと思います。

教員がそうしたことばの意味を探究して知っている(ある程度)ことで、ことばの意味がわかったら「おもしろい!」「なるほど!」となる学びを作ることができるという学びをデザインする態度を身に着けてほしいと私は願っています。

さてさて、今回の授業では重要古語(重要って受験に出るから重要なのかなぁ?)の「うし」と「つらし」。

どちらも、辛い、冷淡だといたしんどさをあらわすことばですが、下記のように感情が向かうベクトルが違います。

それを教えるのではなく、生徒の皆さんが「気づく」ことによって、「おもろい!」ってなるはず。じゃぁそうなるように学びをデザインしてみよう、というのが今回の授業の骨子でした。

他に取り上げたのは、「うつくし、うるはし、らうたし」


それと、「きよら、きよげ」です。

「きよら」は、最上の美しさ。「きよげ」はきよらよりは劣るけれども美しい様、といった定番の教え方覚え方で「最上」「美しさ」についてお茶を濁さずに、「それってどいういうこと?」と問う学びをデザインすれば、文学とは何か?人間とは何か?という問いに向き合うことができるようになる。それが面白いと思うよ~どう思う?と投げかけてみました。回答を特に得ていないのでわかりませんが、学生さん個人個人で自分なりに考えてくれると嬉しいなぁ。

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