映画の本質とは何か?~「アベンジャーズ/エンドゲーム」から考察してみた~
前回、「なぜ「アベンジャーズ」は全映画の中で最も評価が高いのか?」という記事を書きましたが、
今回は、もっと根源的な問いである「映画の本質とは何か?」「エンターテイメントとはいったい何で、お客さんにどんな価値を提供しているのか?」を探っていきたいと思います。
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そもそも、なぜこんな問いが僕の中に生まれたかと言いますと、MCUの映画作品を見始めたとき、まず最初に思ったことが
「映画じゃなくて、ドラマでやれば良くね?」
だったからです。
見たことのない人のために簡単に説明しておきますと、MCUとは「マーベル・シネマティック・ユニバース」の略で、マーベル・コミックを原作としたスーパーヒーローの実写映画化計画のことを指します。
アイアンマンを始め、スパイダーマン、キャプテンアメリカ、アントマン、ブラックパンサーなど、アメコミのスーパーヒーロー達が、同じ一つの世界観に登場するシリーズ映画です。
マーベルスタジオは、2008年に上映された『アイアンマン』を皮切りに次々とヒットを飛ばし、現在までで全25作品あり、この物語の大団円となった『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)は、全世界興行収入1位でもありました。
(現在は2位。1位:アバター、3位:タイタニック)
日本で例えるなら、あるときは『ドラゴンボール』の悟空や『ワンピース』のルフィが、あるときは『鬼滅の刃』の炭治郎や『呪術廻戦』の虎杖たちが登場し、最終的には同じ一つの世界観で活躍するようになる、といったらわかりやすいかもしれません。
めちゃくちゃワクワクしますよね。夢みたいです。
そんなマーベルスタジオなんですが、2017~2019年の3年間でなんと9本もMCU作品を公開しているんです。
この事実を知ったとき、僕は「映画」って何なのかわからなくなりました。
というのも、MCU作品の最も特異な点は「海外ドラマ(のようなこと)を映画でやってのけたこと」だと思っていますが、一方で、
棘のある言い方をすると、
「それならドラマでやれば良くね?」
と思ってしまっていたからです。
映画のレビューサイト・Filmarksで、あらゆる映画の中で最も評価の高い『アベンジャーズ/エンドゲーム』(MCU作品22作目)を僕はどうしても見てみたくて、第1作目である『アイアンマン』を鑑賞したのは去年の5月。
そして、全てを見終えたのは今から1ヶ月前。
ふだん週6本映画を見ているのに、たった22本見るのになんと約1年もかかっていたのです。
(他の人も調べてみましたが、同じくらい時間がかかってる人がすぐに何人も見つかりました)
「全50話で長いけど、Netflixでかなり面白い海外ドラマあるから見てみて」と言われるのと「シリーズものの映画22本」とでは、仮に同じ長さだったとしても、心理的なハードルの高さが全然違うのです。
もちろん、様々なアメコミのスーパーヒーローを一つの世界観で見れるのは初体験で、まだこんな映画体験が残されていたのかと本当に感動で震えましたが、
見やすさだけを考えると、映画よりだんぜんドラマの方が見やすく、もしドラマとしてやっていたらもっと広まったんじゃないだろうかとさえ最初は思っていました。
「MCUって映画じゃないじゃん、ドラマじゃん」
「なんでわざわざ映画でやってるんだろう」
「そもそも映画ってなんだっけ?」
これが最初に抱いた率直な感想でした。
しかし、全作品を見終えたとき、驚くべきことに僕の中で大きく考えが変わり、それと同時に「映画とは何か?」という深遠なる問いの答えも出すことができました。
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転機となったのは今から1ヶ月前、『アベンジャーズ/エンドゲーム』を見たときのことでした。
僕は『エンドゲーム』を本当に楽しみにしていて、家のそれなりのサイズのテレビで見ていたのですが、
諸事情で、ちょうど終盤(物語の最大の見せ場である"全員集合"する10分前くらい)からいったんテレビを切って、場所を移して、(LINEチェック&トイレに行ってから)パソコンの小さな画面で続きを見ることになりました。
その間、およそ15分。
その後、すぐに見せ場であるスーパーヒーロー達が〝全員集合〟する場面がきて、
「これがかの有名な全員集合かぁー!!!!!号泣必至だろうがぁ!!!!!」
と思っていたのですが、僕ここ全然泣けなかったんです。
なんだったらちょっと拍子抜けしたくらいで、「え、これが?これで号泣?」とさえ思ってしまっていました。
そして本編も気付いたら終わってしまっていて、「あれ~!?」というのが初めて見たときの正直な感想でした。
こんなにも楽しみにしていて、途中まですごく盛り上がっていて絶対に泣くはずだったのに、なんで僕はこんな冷めた気持ちになってしまっていたんだろうとずっと考えていたのですが、
これ間違いなく、「途中でテレビからパソコンに切り替えたから」だったということがわかりました。
では、ここで問題です。
◆テレビからパソコンに切り替えることで失われたものは何だったでしょうか?
何かが損なわれたから、僕は感動できなかったのです。
迫力?
違います。
もちろんそれも多少はありますが、パソコンで見ても感動できます。
では何か?
それは
「感情」
です。
正確に言うと「感情の高ぶり」です。
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どういうことかと言いますと……
まず、物語にはいわゆる起承転結があり、いきなり面白いにこしたことはありませんが、少しずつ盛り上げていき、最大の見せ場で観客の感情を一番揺さぶれるように作られています。
例えば、新海誠監督は『君の名は。』で、このような「感情グラフ」を作っていたことは業界内では有名な話で、どこでどのくらい感情が揺れるのかをしっかりと把握して物語を描いていました。
(『君の名は。』では隠し本尊の片われ時に3年の時を超えてついに三葉と瀧くんが出会い、そしてその後、ティアマト彗星の落下から逃れるために三葉たちが奮闘する場面で、観客の感情がピークになるように少しずつ盛り上げて作られています)
これは「恋愛」に置き換えて考えてみるとわかりやすいかもしれません。
例えば、明日、あなたは好きな子に告白するつもりだとしましょう。ベタですが、二人で水族館に行き、夜景の見えるレストランを予約しています。
では、いつ告白しますか?
おそらく1日デートして、一緒にディナーを楽しみ、できれば最後に夜景を見ながら、二人の気持ちがピークに達するであろうタイミングで、「好きです」と告白するのがベストなはずです。
デート当日、待ち合わせ場所で出会い頭、告白する人っていないと思うんですよ。
では、なぜしないのか?
まだ気持ち(感情)が最高潮に達していないからですよね。最高潮に達していないと振られる可能性が高まってしまいます。
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僕は『アベンジャーズ/エンドゲーム』を途中でテレビからパソコンに切り替えることで、しかもその間にLINEを返したり、トイレに行ったことで、それまで高められてきた感情はぷつりとそこで途切れてしまっていた。
僕の感情グラフは再びかなり下がった状態からのスタートとなり、それなのにいきなり最大の見せ場が来てしまい__待ち合わせ場所で出会い頭に告白してしまうことで__号泣必至の場面で感動できず泣くことができなかったのでした。
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この経験から、「感情の高ぶり」が途切れてしまうため、映画を隙間時間に細切りで見たり、ながら見は向いていないことに気づきましたが、
さて、それでは逆に最も感情的に興奮しながら映画を見られる場所はどこでしょうか?
これは考えるまでもありませんね。最も集中して見られる場所は、
そう、「映画館」です。
映画館で見る映画と、家でご飯を食べながら見る映画や寝る前にさくっとパソコンで見る映画とではまるで「体験価値」が違います。
映画と他のメディアとの最も大きな違いは【没入感】にあります。
「本」も没入させてくれるメディアですが、それでも映画と比べたら大したことありません。
また、家で「ゲーム」に集中していても、もし近くに置いていたスマホがピコンと鳴り、好きな子からLINEが来ていたら、やっぱり見ちゃうと思うんですよ。
でも映画館だとありえません。そもそも物理的に見れないんです。
見ている最中に誰かから話しかけられることもありえません。
まさしく目の前のスクリーンだけに没頭することができるのです。
つまり、映画の本質とは、「どれだけ観客をスクリーンの一点に没頭させられるか」にあり、1800円の映画チケットはお客さんに「2時間の没入感」を提供しているのです。
ここまで長時間、一つのことに没頭させてくれるエンターテイメントは映画ぐらいしか見当たりません。
ディズニーランドでも難しいでしょう。
(なので厳しい言い方になってしまいますが、逆に言うと、お客さんを2時間没入させられない映画は映画ではありません。〝映画のようなもの〟ということになってしまいます)
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去年、僕は数百本の映画を見ました。
念願の、世界一の映画大国であるインドの映画館にも行くことができました。(↓↓インド一豪華で有名な映画館ラージ・マンディル)
(日本では年間600本くらい映画が作られているのに対して、インドでは約2000本。観客動員数も世界一。ハリウッドならぬ「ボリウッド」と呼ばれていて、映画はインド人にとって最大の娯楽です。インド映画『きっと、うまくいく』『ダンガル』『バーフバリ』などは日本でも有名ですね。
日本とインドの映画館の最大の違いは、上映中のお客さんの歓声の大きさでした。指笛を鳴らしてる人もいますし、映画鑑賞というよりほとんどスポーツ観戦に近くて歓声が本当にすごかったです。 もちろんヒンディー語だったため、映画は雰囲気しかわからなかったですが、すごく楽しむことができました)
そんな中、最も印象に残っている映画は『ダークナイト』と『劇場版 ヴァイオレットエヴァーガーデン』でした。
この2本、IMAXで見たんです。
(※IMAXとは通常価格に+600円で見られる音楽と映像が超素晴らしい映画館の進化版みたいなやつです)
そのときの体験が今でもまざまざと思い出せるくらい素晴らしかった。
先ほど、「映画館では見ている最中に誰かから話しかけられることはありえません」と書きましたが、この時、あろうことか隣に座っていた高校生の二人組が上映中に普通におしゃべりをしていました。
ちょっと一言かわすとかではなく、普通に会話するレベルで話していて、僕は今日という日を本当に楽しみにしていただけに「最悪や……今日は帰って来週もっかい見に行ってやろうか」とさえ思っていたのですが、やはり盛り上がってくると、高校生たちはまず喋らなくなっていきました。
あぁ今この子たちは映画に惹き込まれているんだって。
さらに没入してくると、僕はそれすらも気にならなくなって、意識はスクリーンただ一点に向けられ、気づいたときには映画が終わっていました。
高校生二人組がいつまで会話を続けていたのかも覚えていなかったのです。
これが映画……か。
いや、これぞ、映画だ。
そう思いました。
この日は新宿の歌舞伎町にあるTOHOシネマズで見ていたのですが、帰り道、どうすればこんな素晴らしい作品を作ることができるのかと圧倒され、一人で朦朧と徘徊していたため何度も歌舞伎町のキャッチのお兄さんに声をかけられましたが、
僕の意識はこの映画の余韻でいっぱいだったため、あのときほどキャッチをガン無視したことはなかったと思います。
また、風邪をひいていて少し熱っぽかったのですが、あまりの感動で見終えたとき、風邪が治って元気になっていたくらいでした(これ誇張なく実話です)
そんな体験が今でもまざまざと思い出せるくらい素晴らしかったのです。
それは片時も目が離せない「2時間の没入感」という至高の体験を提供してもらえていたからだったということに今気付きました。
いつも映画を見たらFilmarks(レビューサイト)に点数をつけてレビューを書くのですが、
今まで「映画館で見た映画は点数を高くつけがちになる」という自分の習性にはうすうす気づいてはいて、もし僕のFilmarksのスコアとレビューを参考にしてくれている人が一人でもいるなら、もっとしっかりフラットな目線で点数を付けないといけないなぁとなんとなく思っていましたが、違いました。
映画館で見る映画は実際に面白いのだ。
観客は、現実世界から遮断され、目の前のスクリーン一点に集中することで、感情は極限まで高められ、エンディングでカタルシスを得られる。
ここには「2時間の没入感」という至高の体験があり、この没頭性こそが映画館で見る映画の醍醐味であり、それゆえにスコアが高くなって当たり前だったのです。
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ほんの数年前まで、僕はほとんど映画を見たことがありませんでした。
映画があまり好きではなかったのです。
理由は「いきなり何も起きないから」です。
僕は十代の受験生だった頃から、ご飯を食べるときの30分間をささやかな楽しみとして、アニメをいつも見ていました。
アニメは23分くらいで終わってくれて、その短い間にも起承転結があります。毎回しっかり見せ場があり、最後は必ず続きが気になるように締めてくれます。
だから「テレビはご飯を食べるときの30分間だけ」という僕の生活スタイルとアニメはとても相性が良かったんです。
しかし、映画はどうかと言うと、これがやっかいなことに最初の20分くらいほとんど何も起きないことがあるんです。
そのためせっかく息抜きのために見たのに、気分転換にならないということが度々ありました。
映画は細切れで見るのには向いていなかったのです。
ここが本やマンガと大きく違うところで、映画は最初が面白くなくても許されるメディアです。
なぜかと言うと、自分の過去を振り返ってもらいたいのですが、チケットを買い、一度入った映画館で前半が面白くなかったという理由で最後まで見ずに途中で帰ってしまったことがある人はどのくらいいるでしょうか?
おそらくほとんどいないと思います。
本やマンガと違い、映画は最初から最後まで見てもらえる前提で作ることができるのです。
なので中盤までの評価と、最後まで見たときの評価がまるで違うときがあります。
例えば、2018年に流行った『カメラを止めるな!』とかが顕著な例ですね。
ネタバレになるので詳しくは言えませんが、冒頭の37分間を全てフリに使うというあのかなり挑戦的な演出はテレビやアニメだったらまずありえません。
映画館では「観客の生の声」が聞けるので、僕はいつも上映終わりに耳をすませているのですが、
この映画を見終えたとき、隣のお客さんが「後半めちゃくちゃ面白かったけど、(前半が面白くないから)これテレビだとありえなかったね」と話していたのですが、まさにその通りだと思いました。
「最後まで見てもらえる」という映画の前提条件を逆手にとった演出方法をしていたのがこの『カメラを止めるな!』だったのです。
これぞ映画なのです。
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さて、そんなこともあり、僕の生活スタイルと合わず、数年前まで映画をほとんど見たことがありませんでした。
それなのになぜ映画を見るようになったかと言うと……
僕には本作りの師匠と崇めている人が3人いまして、少しでも早くその人達に追い付きたいという気持ちで日々文章を書いているのですが、当時、僕はもうこれ以上どうすればより高みにいけるのかがわからず本当に悩んでいました。
このままではだめだということだけはわかっていて、そんな状況を打破すべく、この3人が共通してやっていることは徹底的に真似して、全部やろうと決めました。
共通しているということは、本作りに大切なことのはずだと思ったからです。
そこで最初に見つけた共通点が
「映画オタク」
だったのです。
もしこの師匠3人が小説やマンガといった物語を作っている作家・編集者だったなら、映画オタクはよくある話です。珍しくもなんともありません。
しかし、この3人全員、自己啓発・ビジネス書を作っているのです。
ということは、
【自己啓発・ビジネス書をより面白くするための鍵がこの「映画」の中にあるのではないだろうか?】
という仮説が立ち上がってきました。
仮説が立ったからには検証しようと、試しに「3年で1000本」映画を見ることにしました。
今年で3年目になるのですが、
(現在850本目。もうちょい!)
今まではこの映画が好きとか、アクション映画が好きとかはあったのですが、「映画そのもの」はとても苦手でした。
なので、こんなに映画をたくさん見ていても、好きで見ていたわけではなかったのです。
しかし、家で見た号泣必至の『アベンジャーズ/エンドゲーム』を最大限に楽しめなかったことをきっかけに、自分でも不思議ですが、やっと「映画」を好きになることができました。
(なんでこのタイミングで好きになれたかはよくわかりませんが、たぶん他のメディアではできない映画だけの良さを再発見できたからなのだと思います。それまでは息抜きの娯楽は映画じゃなくてアニメで良くね?と思っていたのでしょう)
映画館で見る映画の醍醐味を知って、あぁこの体験価値というものは、家でご飯を食べながら見る映画とではまるで違うんだなぁとやっと気付くことができ、映画の楽しみ方を知ったと言えるかもしれません。
僕は本が専門なので、本にしかできないこと、本だからできること、本にしかありえない形を目指してやってきましたが、「映画にしかできないこと」を考えていなかった。
映画とは〝2時間の没入感〟だったのです。
「映画めっちゃ見てますね」「映画館行き過ぎじゃないですか?」などとよく言われるようになりましたが、それに対して僕は「いやそれがアニメは好きだけど、実は映画はあんまり好きじゃなくて……」「〝ビジネス映画好き〟なんです」と今までは答えてきましたが、
映画を浴びるように見始めた3年目にしてやっと胸を張って「映画が好きだ」と言えるようになった気がして、今ではとても嬉しい気持ちでいっぱいで思わずこんな記事を書いてしまいました。
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📖ここからは〝森井書店〟のお時間です📖
✏記事の内容に合った「10年後もあなたの本棚に残る名著」をさくっと紹介するコーナーです✏(vol.4)
今回のテーマは「映画と本質」
紹介する名著はこちら!
『取材・執筆・推敲』です!!!
ライター・古賀史健さんと編集者・柿内芳文さんによる、大ベストセラーとなった『嫌われる勇気』以来のタッグでございます。
先ほど、本文で本作りの師匠とリスペクトしている人が3人いると言いましたが、実はそのうちの2人がこの古賀さんと柿内さんです。
古賀さんはもともと映画監督を目指して地元の大学の芸術学部に進み、卒業制作で映画を撮っていたくらいで、柿内さんは自他ともに認める映画好きで有名で、口を開くと映画の話ばかりしています。
そんな映画好きコンビによるこの本は、
「もしもぼくが『ライターの学校』をつくるとしたら、こんな教科書がほしい」
というライターの教科書をコンセプトの下、執筆された本です。
本の帯には「この一冊だけでいい。100年後にも残る「文章本の決定版」を作りました。」と書かれています。
この並々ならぬ熱量!!!
〝森井書店〟の「記事の内容に合った、10年後もあなたの本棚に残る名著を紹介する」というコンセプトにもばっちり合う一冊となっております。
僕はこれほど発売を楽しみにしていた本は他にありません。
さて、そんな「ライターの教科書」が先月発売されたとき、僕は読み始める直前にTwitterでこんなツイートを見かけました。
ダイヤモンド社の編集長・横田大樹さんのツイートです。
【良書の尺度は、既存の概念をどれだけ魅力的に再定義できているか】
僕はそんな視点で本作りをしていなかったので、本作りをする上で大切な新しいメガネを手に入れたようでとても嬉しくなり、この一行には思わず痺れました。
その後、『取材・執筆・推敲』を読み始めたら、確かにぶったまげました。新しい定義付けの数々。
この本で知らなかったことや試したことのなかったことは全部11個もあったのですが、その中でも僕の中で一番勉強になったのが、この「本質や定義付けの妙」でした。
そこで、少しでも早く日本一のライターである古賀さんに近づけるよう、本に書かれていることを自分の血肉にするべく、今回僕にとってある小さな挑戦をしました。
もちろんそれは「定義付け」です。
早速この記事で実践してみました。
このように今までなんとなく使ってきた言葉の本質を探り、「定義付け」を行いました。
文章を書かない人にはあまり伝わりにくいかもしれませんが、この定義付け、書く側にとって実はめちゃくちゃプレッシャーがかかり、かつものすごく難しいことなのです。
なぜなら、「◯◯の本質」を書くためには、その対象を深く深く理解しておく必要があり、もっと言うとその対象だけでなく、その周辺__映画で言うと本や漫画など__の理解も必要で、なぜなら周りと比較することでやっとその対象にしかない特異性を掴むことができ、そこでやっと本質が幾ばくか見えてくるからです。
それに「◯◯の本質は▲▲だ」といざ自分だけの定義付けを行ったところで、それが的を得ていないと読者には余計に伝わらなくなってしまいます。
つまり、再定義とは旧来の定義を超えて初めて意味を持つハイリスクハイリターンのようなものなのです。
それほど高難度のことなので、プロでもほとんどの人はやっていないと思います。
というか僕はお恥ずかしながら、「良書の尺度は、既存の概念をどれだけ魅力的に再定義できているかにある」という観点で本を見れていなかったので、今まで何十万字と文章を書いてきましたが、おそらく意識的に定義付けを行ったことは一度もなかったと思います。
なので今回が初めてで、かなりプレッシャーに感じつつも定義付けを行い、それを「映画」でやったのは僕の中で大きな前進で、なぜなら専門性が一つ増えた気がしたからでした。
数年前から「3年で映画1000本見る」を掲げて映画漬けの毎日で、
『感情から書く脚本術』(カール・イグレシアス)
『SAVE THE CATの法則』(ブレイク・スナイダー)
『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(シド・フィールド)
などを読み込んでしっかり脚本術(物語の書き方)の勉強もしていたので、これだけやってやっと少し「映画」を語れるようになった気がして、とても嬉しくなったのでした。
(これからもしばらくこの定義付けの訓練は続けていこうと思います)
2年前に、柿内芳文さんの「編集の私塾」に通い、そこで「定義付け」の話をされていました。
だから定義付けのことはなんとなくは知ってはいたんです。
でも正直、ぴんとこず、定義付けの必要性についてよくわかっていませんでした。
なので僕は手を上げ、その場にいた別の編集者の方にも「定義付けというものは編集者はみんなやっているものなのですか?ベストセラーを何冊も出されている◯◯さんはやっていますか?」と質問して聞いてみましたが、「定義付けやっていない。柿内さんだけでしょ~笑」と言っていました。
それだけに「また柿内さん独特なこと言ってるよ」くらいにしか思ってなかったんです。
しかし、今回この本を読み、やっと再定義をすべき理由がわかりました。わかったというかあくまで僕の解釈ですが、
「既存の概念の再定義」とは「新しいコンセプトの提示」だと僕は捉え直しました。
新しいコンセプトの提示とは、「こんな風に世の中を見ることもできますよ」と、「よりよく見えるメガネを配ること」だと僕は解釈しました。
だから、「既存の概念の再定義」は大切なことなのです。
読者の世界を変えうる可能性を持っているからです。
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今回、あらためてこの記事を書きながら、映画の本質だけでなく、「エンターテイメントの本質とは何か」も考えさせられました。
エンタメの本質は「お客さんを違う世界に連れていくことにある」と僕は考えています。
映画なら映画の、ディズニーランドならディズニーランドの世界観にお客さんを没入させることで、現実世界の辛いことやしんどいことを全て忘れさせてくれて、
「違う世界に連れていってもらえる」
これこそがエンターテイメントの醍醐味なのです。
一方で、長所は短所、短所は長所なんて言われたりしますが、エンタメの課題はこの「没頭性」にあると僕は考えています。
なぜなら、「エンタメに没頭している時間は、現実世界では弱くなってしまっている」からです。
これがエンタメの課題です。
どういうことかと言いますと、
例えば、ディズニーランド。ディズニーが提供している価値は「夢のような楽しい時間」や「幸福感」です。
しかし、〝夢の国〟とはよく言ったもので、文字通り、夢の国というディズニーランドから一歩外に出ると夢から覚めてしまい、シビアな現実に戻されてしまいます。
ディズニーに行ったことで、仕事ができるようになったり、職場の人間関係が良好になったりはしません。
「エンタメは辛い現実からの逃避」とも言えるのです。
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僕はマンガが好きで、今でも読まない日はないくらい読んでいますが、一番読んでいた時期は高校生の頃でした。
ちょうどドラゴンボール、スラムダンク、ワンピース、ナルト、ブリーチ、ハンターハンターなどを初めて読んだりしていた時期で、あまりの面白さに本当に手がとまりませんでした。
しかし、読み終えた時、いつもどこか虚無感や空虚さみたいなものを感じていました。
その頃は、部活や勉強は一切していなかったので膨大で茫漠な時間だけがありあまり、何かをやりたいけれどやりたいことは何もなく、本当に毎日が鬱屈としていました。
地元・宝塚から神戸の高校まで1時間以上かけて通っていたのですが、帰り道、マンガを閉じ、最寄り駅に降り立つ度に、
「俺はいったい何をしているんだろうか……」
という虚無感ばかりが広がっていっていました。
スラムダンクを読んでバスケがうまくなるわけでも、ドラゴンボールを読んで喧嘩が強くなるわけでも、デスノートを読んで頭が良くなるわけでもなかったからです。
実際、スラムダンクを読めば読むほど、スポーツでは負けるようになっていきました。そらそうですよね、部活をやっている人とマンガを読んでいるだけの人とでは差が歴然です。
周りは何か打ち込んで頑張っているのに、自分だけが取り残され、マンガを読めば読むほど現実世界では弱くなっていきました。僕はだんだんと負けるようになっていった自分を許せなかった。
そんなときです。18歳の頃、出会ったのが「本」でした。
本はすごかった。
一つ知れば、一つ強くなった気がした。二つ学べば、二つ世界が開ける。
本を読むことで、僕の世界は「無知から未知へ」広がっていったのです!
マンガは読めば読むほど虚無感が深まっていきましたが、本は「自分の人生が24時間エンターテイメントになる」可能性を秘めていたのです!
これだ、これしかない。
そう思いました。こういうエンターテイメントを求めていたんだ。本を読み終えたとき、二次元や他人の人生ではなく、自分の人生を生きられるようになっていた。
ついに僕は見付けたのでした。
だからこそ、僕はディズニーランドに勝てるのは、本だけだと思っています。
(正直、現状はなかなかくすぶっていますが)、エンタメの本質的な価値を提供しつつもその課題を解決できるような「世界を変える本」をいずれ作りたいと思っています。
「世界を変える」とは、もちろん「自分の人生が24時間エンターテイメントになる」ということです。
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……はい、そろそろお時間がきてしまいました。『取材・執筆・推敲』という古賀さんと柿内さんの熱量が凄まじい本を読んだばかりだったので、僕も熱くなってしまい長くなりましたが、今日はこのへんで"森井書店"お開きとさせていただきます。
それではまた次回、一緒に人間理解を深めていきましょう。
無知から未知へ、いってらっしゃいませ!
古賀さん&柿内さんコンビの代名詞。僕の本作りのバイブルです。
この本が出る前と出た後では、大袈裟でもなんでもなく、脚本家志望または脚本家の世界は大きく変わったと思います。古賀さんの『取材・執筆・推敲』がそうであるように。僕自身、本当に勉強になり、作り手に感謝しかない一冊です。
そこまでガチでやるつもりはないけど、映画のストーリー作りについて知りたいという方はこれがオススメです。めちゃくちゃわかりやすく読みやすいのに、すごく勉強になります。
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前回の記事も『アベンジャーズ/エンドゲーム』について分析していました。こちらも良かったらぜひ!
「良書の尺度は、既存の概念をどれだけ魅力的に再定義できているか」という大切なことを教えてもらった横田大樹さんのnoteはこれがかなりオススメです。今でも時々読み返します。