「もう一度あそこに行きたい」 白いベッドの淵に腰をかけ、黒く長い髪を揺らし、窓の方を眺めながら涼子はデンジにそう言った。外出は無理だと思ったが医師の計らいで許可が降りたという。駐車場に停めてある"佐々木電器店"と書かれたバンはデートでよく使わせてもらった思い出の車だ。それに2人して乗り込んで、後ろに積んだ工具入れをガチャガチャと鳴らしながら望みの場所に向かった。 時折りデンジは助手席に座る涼子を心配そうに横目で見ながら声をかける。 「寒くないか?」 涼子は毛布をすっぽり
梨花は最近、母親と折り合いが悪い。母親が憎いわけではない。大事にされているのはわかっている。ただいつの頃からか母親が本当に自分を見ているのかわからなくなっていた。 あの子は勉強ができるのよ、と母親が誰かに話すのを聞いて梨花は勉強を頑張った。友達の数を自慢されればグループを掛け持ちしたし、男子に人気があるのよと聞けば苦手なタイプにも愛想を振りまいた。しかし中学の終わりの頃になると母親の理想からどんどん乖離していく自分に苛立つようになっていた。 できることもあればできないこ
「はじめまして!菱形丸子です!」 第一声はシンプルな自己紹介だった。よく通る声が彼女の性格を表している。入学式が終わってすぐのクラスでの自己紹介。飛び抜けて元気な少女が菱形丸子だ。短めのポニーテール、ジップアップジャージの上に多機能ベスト、ショートパンツから伸びる脚は黒いタイツで覆われている。それにトレッキングシューズ。これからキャンプにでも行くのかという出立ちが彼女の制服らしい。 「今日から新しい高校生活!みんなと仲良くしていきたいですっ!」 そう締めくくると丸子は席に
長らく降り続いた未曾有の大雨は近くの川を氾濫させ街のあちこちを洗い流した。古い家屋は土台から流されて崩れた屋根が道にはみ出している。通りの脇には決まった間隔でゴミの泥だまりができており住民が処理に困っているのが伺える。所々完全に引かずに残る水面が晴れ渡る青空を映していた。 僕の家は比較的被害が少なく終わったので友達のアパートの後片付けを手伝いに来たのだが、この辺りは古い家屋が多くほとんどが流されたせいで随分と見晴らしが良くなっていた。遠くに見える平衡感覚を失った電柱の列
ここの待合室は少し変わっている。なかなかの広さを誇り壁も天井も真っ白で照明も白く明るい。そのくせ窓がなくてあるのは入り口と出口のドアだけだ。そして床には白い布団が敷き詰められ入り口から入って来た者は名前を呼ばれる順番をその布団の中で待つ事になっている。正面の壁には大きめの液晶テレビが一台設置されていてチャンネルを変えるリモコンは待合の者全員に一個ずつ与えられていた。大抵の者が布団から上半身を起こして腕を後ろに支えながらテレビの方を向いている。テレビはしばらくずっとくだらない
夢枕に立ったのは知らないおじさんだった。"おじさん"というのは相対的な姿で、なぜなら夢の中の自分は二十代だったからだ。「君とは1時間くらい口論したけれど、実に変わった奴だったよ、君は。」と言われたのだが身に覚えがない。「そうでしたっけ、すみません急いでるので。」とりあえず誤魔化してその場を離れようとする。おじさんは時間的に仕事帰りで、少しシャツが乱れていた。ネクタイを緩めさあ帰ったぞ、という出立ちだった。正直ちょっと冴えない格好だった。「覚えているかい、熱く口論した後なのに