見出し画像

大雨の後

 長らく降り続いた未曾有の大雨は近くの川を氾濫させ街のあちこちを洗い流した。古い家屋は土台から流されて崩れた屋根が道にはみ出している。通りの脇には決まった間隔でゴミの泥だまりができており住民が処理に困っているのが伺える。所々完全に引かずに残る水面が晴れ渡る青空を映していた。

 僕の家は比較的被害が少なく終わったので友達のアパートの後片付けを手伝いに来たのだが、この辺りは古い家屋が多くほとんどが流されたせいで随分と見晴らしが良くなっていた。遠くに見える平衡感覚を失った電柱の列が道路の存在を思い出させ、その向こうには見えないはずの神社の森が水面の森と合わさって大きな塊となっている。そんな非日常の惨状が不謹慎にも美しい風景に見えた。

 T君のアパートは本人曰くの安普請の割にいつもの場所に残っていた。とは言っても一階は水に押し流されたのだろう窓は全て無くなっており、中は家具というものが見当たらず泥の住居と化していた。脇の鉄製の階段をいつものようにカンカンと登り、さて二階のT君の部屋はどうなったか見にいくと玄関のドアは外れて傾いている。そこから覗く奥の部屋の窓が薄闇の中で四角く光っていた。

 中に入らせてもらうと部屋の主は留守のようでしんとしていて、時折りガラスのない窓から柔らかな風が吹き込み机の上の湿った書類たちを揺らした。窓が壊れて雨が吹き込んだのか安普請が祟って雨漏りでもしたのか部屋は水浸しの跡だった。床には飛ばされた原稿用紙が散乱している。僕は破らないように注意しながら被害の少なそうなものから集めていった。濡れて滲んでもう読めないものでもついつい書いてあるものに目がいく。T君の書いたものは面白いものも面白くないものもあったがどれも僕は好きだった。そういう意味では愛読者第一号を自負している。陽の目を見ないものばかりなんだからよしてくれ、とT君が笑うところに、自称なんだから文句言うなよ、と僕が返すまでが新作を読ませてもらう時のいつものやりとりだった。

 散らばった原稿の中に枠線のない白地にずらりと箇条書きが書かれている紙を見つけた。一つ、〜べし。一つ、〜べし。という風に走り書きで物書きの心得のようなものが書いてある。T君の性格からしてそれらはだいたい誰かの受け売りなんだろうけれど、なかなか良い文言だからスマホのカメラにこっそり納めさせてもらった。

 ふと背中に気配を感じるといつの間にかT君が帰ってきていて無言で散らばった原稿をかき集めはじめた。僕は大変な事になったね、と言いながらT君と並んで原稿用紙を拾おうとするも横からひったくるものだから少し驚いた。まあ原稿は本人にとって大切なものだし順番もあるし仕方がないかと他の散らかっているものに手をつける事にした。本棚を見ると下の方の雑誌は水分を含んで変色していたが、上の方のお気に入りの豪華本や単行本は難を逃れたようだ。その中に僕の貸した漫画もあってちょっとホッとする。後ろでガサガサとゴミ袋の音がしたので振り返るとT君が集めた原稿用紙を詰め込んでいるところだった。何やってるんだよ、と袋を引っ張ってT君の手を止めさせる。袋の中にさっきの箇条書きが折れ曲がって押し込まれているのが見えた。T君は俯いてこちらを見ようともしない。元の形を取り戻そうとするゴミ袋の音だけが響いた。

 しばらくしてT君が話し始めた。部屋はめちゃくちゃだし、行く当てもないし、もうあっちに帰るよ、と。なんで、と返そうとしたらT君は僕のほうを向いて、まあ俺なんて詐欺師みたいなもんだからな、と新作を見せてもらう時のいつもの顔で笑った。それを見た途端、僕は急に悲しくなってT君に背を向けた。歯を食いしばって目を固くしても涙が溢れてくるのは止められなかった。詐欺師なんかじゃないよ、僕は声を殺そうとするも感情を止める術を失ってしまい、詐欺師なんかじゃない!さっきの走り書きをそこから出せ!もう一度ようく見るんだよ!と大きな声で叫んで大きな声で泣いた。T君はその様子に気圧されたのか俯いたまま何も言わない。僕はその表情も確かめず、何か入れ物を取ってくるよ、と言い残して部屋から出た。

 階段を降りて通りに出ると泥だらけの街並みが広がっていた。風の匂いは決して清々しいものではなかったけれど、見通しは良く遠くの木や家々がはっきり見えた。いろんなものが流された。地面を覆う泥には人の足跡や犬の足跡がいっぱい残っているけれど、その主たちの姿はもうどこにも見当たらない。言い訳の入れ物なんて見つかるはずもなく、ただ何もかもが遠くに行ってしまって、僕の居場所も無くなるような気がして、広いぬかるみにひとり立ち尽くすばかりだった。

いいなと思ったら応援しよう!