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【今でしょ!note#177】「要するに」は自分を下げる言葉

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

皆さんの周りに「要は〜〜でしょ?」とか「要するに〜〜ということだよね」が口癖の人はいないでしょうか。
私の経験上、「何かとマウントを取りたい勢」や「勘違いエリート」に多い印象があります。
私も無意識のうちに使ってしまっているかもしれませんが、「要するに」は、自分の評価を下げる可能性を秘めた言葉。使う時には、ちゃんと理解して使わないと損することになりますよ、という話をしていきます。


「要するに」はオールドタイプの発想

山口周さんの「ニュータイプの時代」では、旧型の価値観である「オールドタイプ」と、新型の価値観である「ニュータイプ」を実に明快に解説されています。

「要するに」という言葉は、「自分は分かっていますよ」ということをアピールしたい人がよく使います。過去の出来事や自分の経験を拠り所にして、相手の話や世の中の出来事を単純化する癖がある人が使う言葉です。
しかし、世の中の変化が激しくなってくると、過去の成功体験が役に立たなくなることが多いばかりか、過去の成功に引きづられて今の自分を苦しめるということもままあります。

そもそも「成功」と呼ばれるものも一過性に過ぎず、ある地点における「成功」や「失敗」に一喜一憂する必要は全くありません。他人の成功が気になってしまうのは人間の性ですが、他人が失敗したら自分は成功するのか、というと全く無関係です。
そう考えると、自分が大切だと信じることを日々一つずつ積み重ねていくのが最も合理的な判断です。他人のことが気になっているうちは、紙とペンを持ってきて頭の中を書き出し、今の自分に集中することをお勧めします。

話が逸れましたが、「要するに」という言葉は、過去の実績で未来を予想してもほとんど意味がない変化が激しい現代において、「私は過去の経験を最も信じています」と公言しているようなものです。

新しい価値観に基づくニュータイプは、決して「要するにこういうことでしょ?」と相手の話を強引に決めつけることなく、相手の話を傾聴します。

「要するに」は、過去の箱に当てはめる考え方

「要するに○○でしょ?」の○○には、自分の頭の中にある過去の箱=パターンが無理やり当て嵌められています。
これは、自分の成長機会を自分で捨てていることと同義です。

なぜならば、自分にとって新しい気付きがあるかもしれない話について、すでに自分の頭の中にある箱に当てはめるということは、新しい箱(=気付き)を頭の中に作る作業にはなりえないからです。

本当に自分が変わり、成長するためには、新しい気付きを積極的に取り入れて、自分の言葉で言語化して頭の中に定着させていくプロセスが必要です。

そのためには、誰かの話を妨害することなく、また「こういうことか」と決めつけることなく、一旦「そのまま」受け入れることが大切。頭がいい人ほど、聞いた話をすぐに単純化・構造化できてしまうのですが、難しいものや説明に時間がかかるものを一旦そのまま受け入れて理解しようと努めることが、成長のためには必須です。

だから「自分の話ばかりしている人」は新しい気付きは得られませんし、同じような教育を受けてきた人や、同じ職場の人としか人間関係がほとんどない人も「気付き」を得る機会がほとんどなく、成長機会を失っています。

本を読まない人も新しい考え方や気付きを得るチャンスが少ないですし、Facebookなどでよく見る「この本読みました」で、カフェと本の写真だけをアピールしている人も勿体無い。多分、読書家であることをアピールしたいのだと思いますが、インプットOnlyでアウトプットがないと「学んだ気になっているだけ」で止まっています。
(読んだ本に対する気づきなどをセットで言語化してアウトプットされている人は、素晴らしいです!)

「要するに」になっていない「要するに」

人の話を聞いて、全部聞き終わらないうちに発する「要するに」は見切り発車である確率が非常に高いです。

そもそも、言葉を使って、人の感情や意見を100%正確に伝えることはできません。それらを全て完璧に言語化することは到底無理で、本人が自分の中の感情や意見と向き合いながら、できるだけ近い表現を探して発せられるものが「言葉」です。

何とか精一杯ひねり出して、それでもその感情や意見に100%マッチしていないことを自覚しながら発せられるものが言葉。どんなに漏れなく伝えようと思っても、指の間からこぼれていく砂のように、伝える過程で漏れ出してしまうもの、それが言葉です。

例えば、自分が好きな人に告白をして、お付き合いできることになったとしましょう。
その瞬間の、自分を突き上げてくる喜びの感情に対して、どのような言葉を当てはめるでしょうか。
「めちゃくちゃ嬉しい!」「飛び跳ねるほど嬉しい!」「超超超超、超Happy!」・・・どの表現を用いても、おそらくそれが自分の心を突き上げてくる衝動を100%表現できているかと問われれば、なんか違うと感じるのではないでしょうか。

超絶ピンチな状況を救ってくれた人がいて、感謝を伝えたいシーンも同じです。
消しゴムを拾ってもらってサラッと言うのも「ありがとう」ですし、18年間育てあげてもらった親に心からの感謝を伝える言葉も「ありがとう」です。
「超超超超、めちゃくちゃ、本当に・・!心からありがとうございます!!」と伝えたい時にバッチリ当てはまる言葉ってないですよね。

このように、本当は言いたいことの90%くらいを伝えられたら万々歳で、精一杯宙に放った言葉が、途中で遮られたり「要するにこうでしょ?」と聞き手の勝手な解釈で機械的に要約されるのって、「言葉」を発した側からすると、あまり気持ちのいいものではありません。

そして、「何かとマウントを取りたい勢」の「要するに」は、大体的を射ていないことが多い。
でも、そのズレの部分を改めて指摘するのも面倒だから、「要するに◯
◯でしょ?」と言われて「はい」と答えているだけ。

「要するに」になっていない「要するに」は、相手のやる気を削いでしまうだけでなく、そこに居合わせた人が「この人の要約はズレてるぞ・・?(でも面倒くさいから指摘もしないでおこう)」と感じ、結果的に評価を下げてしまうということです。

自分を大きく見せようとする言葉は、大抵バレている

今日は「要するに」を例に取って詳細を解説しましたが、このようなマウントを取りたいだけの意図で使っている言葉というのは、大抵周囲が冷静に見ていることを理解しておいたほうがいいですね。

もちろん、正しく「要するに」が使えれば、「うまく伝えられなかったことを、端的に表現してくれてありがとう!」と感じてもらえるケースもあるため、「要するに」という言葉自体が悪いとは言っていません。
そうではなく、何か裏があるときに発せられる言葉は、周囲も気付くので気を付けたいですね、という話でした。

分からないときは、素直に「分からないから教えて」というほうが、愛されるし、そこから新しいことを学ぶことができます。
つまらない見栄は張らずに、等身大の自分で勝負していきましょう!

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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林 裕也@30代民間企業の育児マネージャー
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