これは、自分の本だと思った
本を読んでいると、惹かれるものと惹かれないものがあると思う。
昨日読んだ宮下奈都さんの「羊と鋼の森」は、勝手ながら、「わかる」、「うわ、重なるな〜」って気持ちで読み進められた。
そしてすごく、心に残った。
(*この記事には、本の一部を引用をする部分があります。ネタバレになるかも?しれないので、嫌な人は避けてもらえるとありがたいです。)
全体を通して、すごく好き
この本を手にとったのは、眠れない夜だった。お昼寝というか、夜に少し寝てしまって、目を閉じても、眠りが自分のもとには訪れてくれない。
そんなときに、「小説が読みたいな」という気持ちで読み始めた。kindleにいつか読もうと、積ん読のように入れていた。
まさか、それを眠れぬ夜に手を取るなんて思いもしなかった。結局、真夜中に半分ほど読んだ。そして、次の日に読み終えた。
話は、ピアノの調律師の人のお話。身近な登場人物と関わりながら、主人公の調律師としての成長が描かれている。
全体を通して、学びになるという部分が多かった。ことばと音楽の結びつきが、あったからだと思う。
本当にいくつも、良いなと思って、evernoteにメモしたのだけど、ここでは一番グッと来る。あ、そのことばだ。って思った部分について書きたい。
僕は僕の調律したピアノがいい音を出したらうれしい。でも、僕が調律するよりもっといい音をつくれる調律師がいれば、その人に任せたほうがいいと思ってきた。楽器のためにも、弾く人のためにも、聴く人のためにも。
でも、今は少し違う。僕が、和音のピアノの調律をしたい。僕が調律することで、和音のピアノをよくしたい。
引用:「羊と鋼の森」
すごく、インターン先の記事の編集の仕事と重なった。
僕は、僕の編集した記事がいいものになったらうれしい。でも、僕が編集するよりもっといい編集ができる人がいれば、その人に任せたほうがいいと思ってきた。記事のためにも、書いた人のためにも、読む人のためにも。
でも、今は少し違う。僕が、編集をしたい。僕が編集をすることで、記事を良くしたい。
みたいな。
今も、自分の編集にはいつも足らなさを感じる。身近に見てきた、ことば使いのうまい人たちの記事を見ると、足元にも及んでいない。あの人は、ここがすごい。そんなところが見つかる。
けれど、それでも、やらせてもらえるんだから精一杯やりたいし、自分の介在価値を出したい。
でも、それは気持ちだけで、実力は追いついていない。
努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考えられる範囲で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを、努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。
引用:「羊と鋼の森」
作中にはこんな言葉もある。努力していると思わなくなった時、たぶん純粋に楽しくてやるときにこそ、積み重ねたものは花開くのかもしれない。
僕の身近なことばのうまい人は、いつの間にか、いいなと思う文章表現をメモして、作者視点で読むようになったという。
じぶんも意識してやるけれど、やっぱりまだまだだなと思う。最近は、ことばより、中身をただ読んでしまう。読む本全てに、自分の悩みの答えを求めるばかりに、なにかを探してよんでしまう。
それはそれでいいものだし、否定するのではないけど、努力を努力と思わないために、すこしでいいから違う視点をもっていたい。
改めてそう思う。