学びとのさようなら、と再会
にゃんたこさんの「世界は救えないけど豚の角煮は作れる」を読んで、久しぶりに文章を書いてみたくなった。
乱筆のご無礼、お許し下さい。
最近は、どこに行くわけでなく、仕事以外は寝るか勉強をしていることが多い。
英語。
世界史。
数学。
論理学。
その他気になった本などを読んで、読んだ時間をノートに記録して、
「こんなに頑張ったんだ。」
と心の慰めにしながら更に本を読んでいる。
中学の途中くらいまでは、そんなに頑張らなくても学校の授業にはついて行けた。
それが良くなかった。
授業中以外に勉強をする癖が身につかなかった私は、解らないことに対してどうアプローチすれば良いのか解らず、少しのつまずきでアッという間に授業の内容が解らなくなった。
環境が悪いんだ。
そもそも学校で勉強することなんて、社会に出たら使わないんだ。
再び授業について行けるようになる為には深い穴から這い上がるような努力が必要だと感じて、その事に深く向き合わないよう色々な理由をつけて、そのまま呑気に過ごした。
幸運にも高校に何とか滑り込めたため、そこからはさらに勉強と疎遠になった。
比喩ではなく、本当に授業中何をしていたのか覚えていない。
友達としゃべったりするのは楽しかったけど、それほど社交的でもなく、中古で買ったギターを家で練習し、深夜番組をひと通り見て、漫画や小説の一気読みをして、高校生活は終わった。
高校卒業後、とある会社に拾ってもらい、学生と社会人のギャップに吐きそうになりながら、それでもなんとか働き続けることは出来た。
今振り返ってみると、人にだけは恵まれる並外れた強運と、若さゆえの体力だけで、綱渡りしているような生活だった。
前の記事で書いたが、20歳くらいの時に「14歳からの哲学」という本に出会った。
自分の底にある世界に対する疑問というか違和感というか、そういうものをえぐられる本だった。
幼少期以来、10数年ぶりに「知ることの楽しさ」を感じた瞬間だったように思う。
が、そこで悪い癖が出た。
「勉強などをしては、自分の目が濁ってしまう。物事を自分の目で見て、肌で感じて、そのことを1から考えることにこそ意味がある。」
と考えた私は、そのことを言い訳にそこからも特に勉強するなどの努力はせずに生活を続けた。
もちろん見聞を広げるために広い世に出るなんて恐いこともしなかった。
ただし、変化はあった。
小説やエッセイなど、面白いと感じる本・読んでいて苦痛じゃない本であれば、少しずつ読むようになった。
30歳の前後くらいに、もう一つ本に出会った。
「永遠についての証明」という数学者を主人公にした小説だ。
その本の中で、数学というものが「美しさ」とつながっているという事を知った。
なぜかその時
「うぉー!そういうことか!!」
という気持ちになった。
うまく言葉にできないが、これだっ!という感覚が確かにあった。
そこからは、色んな分野の入門書を少しずつ買うようになった。
「これなら分かる!」みたいなふれ込みの本を買って、挫折して、喉元過ぎた頃に別の本を買った。
その頃は、統計学とかマーケティングに興味があって、そんなジャンルの本を読んでいたと思う。
そこから数年経って、現在。
よくよく考えてみれば、自分には中学・高校で習うような基礎教科についての知識というか、感覚みたいなものが不足していると思い至った。
そして、あれだけ時間がある時期に身につけられなかったことを、仕事をしながら学び直すのが、どれほど胆力のいることか、についても悟った。
学び続けている間は、自分の阿呆さにトコトン付き合う事になる。
それでも、気長に学び続けていこうと思う。
60歳でやっと中学の内容が終わるくらいでもいい。
この間、ホールケーキという言葉の「whole」という単語には、「全体の」という意味があることを初めて知った。
ナルホド、と思った。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。