【映画】他者比較の必然性 | トゥルーマン・ショー
名作中の名作。お恥ずかしながらタイトルは知っているけど見たことがなくて、興味というより教養として鑑賞してみた。以下ネタバレを含みます。
全体的な感想
普通に面白かった。特に不快になることもなく、そんなにドキドキもしない。当たり障りのない映画というか、苦しくなったり見ていられなかったりっていう描写がないから誰でも気軽に消費できる。
トゥルーマン・ショーはコメディであるけど、同様にホラー映画でもあった。コメディ映画として完璧な伏線(不自然な商品紹介が実はCMだったとか)があって十分面白い。でも同時にトゥルーマン・ショーを行う人間の倫理観の無さ、節々に感じる実際の人間社会の暗喩と皮肉みたいなところに対して少し恐怖を覚える。考える人は考えるし、考えたくない人は普通にコメディ映画として消費できる。やっぱり名作だ。
誰しもトゥルーマンと同じような世界を生きている
中でも印象深かったのはトゥルーマン・ショーの総合プロデューサーの「与えられた人生を享受することは容易だから」っていうセリフ。トゥルーマン・ショーはフィクションコメディーなわけだけど、そこには人生についての暗喩があるみたいな。うますぎる。
トゥルーマンはテレビのプロデューサーたちによって作られた、一般社会とは違う隔離されたトゥルーマンだけのための世界で生活している。それは確かに非常に特殊で奇妙な生活だけど、おそらく人間誰しもそんな世界で生きてる。私は両親のもとに生まれて、特に何も違和感を覚えることなくこれまで育ってきて、埼玉県で生まれたことも、今の両親のもとに生を受けたことも、2003年に誕生したこともどれも私が生まれた時から決まっていた事実で、その事実の上に育ってきて、そこに疑問を持ちようがない。大統領の息子として生まれてきても、ビートルズの娘だったしても、それは彼らにとって初めから与えられた人生であり、環境であり、それを受け入れるのは当事者からしたら容易である。
そもそも初めから与えられているものですら疑ってしまったら、人間は人間っていう存在自体を疑う羽目になって、もう元も子もないというか。化学とかと一緒。化学もある程度公式とかルールがあって、それらを認めた上でそれらを使って実験とかしていく。それと同様に人間も自分が生まれた時に与えられたものはその人のベースであり、疑っては何も始まらないから享受するのが容易なんだ。トゥルーマン・ショーは人間のそんな思考を利用したもので。でもトゥルーマンのための世界が完璧ではなかったから(壊した女性がいたから)崩れてしまっただけで、現実世界ではそういうイレギュラーは普通起こらないから、みんな自分の与えられた人生を享受するしかないんだ。
大海を知ることは幸せか?
トゥルーマン・ショーはまさに井の中の蛙。大海を知らない方が幸せだったんじゃないかとも思う。トゥルーマンだってあのままあの作られた世界にいたら、婚約者もいて子供にも恵まれたかもしれない。安定した職もあって、トゥルーマン自身は知らないけど絶対に死なないわけだから安全なわけで。
これはディズニー映画とかもそうだけど、最近はすぐ井の中の蛙に大海を教えようとする。井の中の蛙が大海を知ることを善とする傾向が強すぎるというか。留学もそうだ。私が所属する国際教養学部では留学が卒業条件に含まれていて、学生時代に海の外を見ることを強制される。それになんか疲れたというか。別にいいのに。自分がいて他人がいて、自分だけなにもしてない、自分だけ知らない、それだって良いのに。大海を知らなくなって、井の中が幸せならそれで良くないか。でもなんで人間ってそれじゃ満足できないんだろうか。
人間はどうしても1人では生きていけない。それは会話しないと死んじゃうとか助け合い大事とかそういう話ではなくて。自分のことを“これが自分だ”と認識するためにはやっぱり他者との比較が必要で。だからこそ大海を知りたがってしまうんだ。そうやって成長していくからこそ、大海に出ることを強いられたりもするんだ。きっと一生外と比較して、比較するたびに落ち込んだり励まされたり、これはもう人間の宿命なんだ。私は人と比べてすぐ落ち込んだりしちゃうけど、それはもう人間である以上仕方がないことなのでもう深く考えることはやめよ〜う。
おわりに
全体的にやっぱり名作だった。
トゥルーマンがあの世界を出た後の描写があったらもっと好きになったな。終わり方が案外あっけなさすぎる。そこは減点!笑