嫌われる覚悟を持つこと
「誰かに嫌われたら生きていけない」
と
ずっと思い込んでいたように思う
この恐怖のはじまりは
まず親との関係の中で生まれたのだろうなとは思う
子供はその親の愛情ゆえに享受できる
物質面での援助が必要不可欠で
だから親の機嫌を損ねたら
「食料をもらえない」
「行動の自由を制限される」
「物質を与えてもらえなくなる」と
つまり
安心安全に生きることが出来なくなると
刷り込まれていて
で
次の段階で
子供時代の集団においても
そのグループの誰かに嫌われたら
それが全体に行き渡って
皆に嫌われるということになる
そうなると
この狭い関係性の中でどうにもいかなくて
やっぱり生きて行けなくなる
これが
人格形成が成される
幼少期、思春期に毎日毎日
何度も何度も刷り込まれて
「人から嫌われたら生きていけない」
という恐怖として
ずっと頭にこびりついていたのだと思う
だから
「良い人」のフリをするし
ちょっとくらいなら嫌なことにも目を瞑ってきたし
ちょっとじゃなくても嫌なことを我慢してきたし
笑いたくもないことでも笑い
食べたくもないものを食べ
行きたくもないところに行き
言いたくもない言葉を紡いでは
したくもない共感を続けてきた
でも
そんなの終わりにしても
いいのかもしれない
いや
いいんだと思う
いいんだと気付いた
私は人から嫌われてもいいし
人を嫌ってもいい
と思うだけで
こんなにも心が軽く
頭がクリアになるんだと
正直 驚いている
(あと、体感がなんか強くなる)
「嫌われたらいけない」と思うと同時に
「嫌ったら、嫌われる」と思って
「嫌わない」ということも強いてきた
でも
みんな
人それぞれ
「好きな部分」もあれば
「嫌いな部分」もあって
100%好きでなくていい
100%好きじゃなくても人付き合いは出来るし
100%嫌いにならなくてもいいし
100%嫌われてることも珍しい
そして
嫌ってくる理由も
「私が悪い」わけじゃないし
「相手が正しい」わけでもない
未発達な感情が暴走しているだけで
何でそんな人たちのそんなものに
振り回されてきたのだろう?
それは自分でコントロールしてくださいと
線引きをしたらいいだけで
反応の仕方をこちらがコントロールできるわけなんかなくて
それを引き出したきっかけは私かもだけれど
それをマイナスに判断する理由は
その人の中にある
とも言える場合もあるというかだいたいそう
(もちろんお互いの齟齬や、こちらの過失によるものもあるんだろうけれど)
そんな一方的な暴力のようなものにまで
責任なんかとれないし
責任をもたなくていい
と思うと
少し楽になるなというのと
人と会ったあとの
ひとり反省会をしなくて済むなと思った
このひとり反省会は
「あの言葉は傷つけただろうか?」とか
「この態度は感じ悪かったかな?」とか
相手の心を測りすぎてるから起こるわけで…
そしてその原因がすべて自分だと思ってるからで…
「そんなの知らねー!」
でいいのである
突き放してるわけでも
自分勝手にしてるわけでもなく
そんくらいの距離感で
よかったんだなと
なんで相手の機嫌のすべてに
責任をとろうとしてたのか
私だって私の機嫌をとっていいし
そのために
(誤解を与える言い方かもだが)
誰かが不機嫌になったとしても
それが私の機嫌の上に成り立つのなら
それでいいじゃないと
いう心は
私の不機嫌の上に自分の機嫌を成り立たせたい人と
一緒になんて居なくていいということで
もちろん
誰かを意図的に 故意に 傷付けたいわけじゃない
けれど
故意じゃなくても傷つけることはある
それをできるだけ減らしたいと思ってきたけれど
相手の問題で不可能、不可避な部分はある
そこにまで
付き合わなくていいよねと
相手の機嫌をとろうとして
自分の不快を少しでも許してしまうと
そこに付け込まれて
どんどん踏み込んでこられることがある
(それを許してると 他人にも踏み込み過ぎてしまうなと)
それを防ぐためにも
そんな人には嫌われていいと思えばいいし
そんな人には嫌われる方がむしろいいし
そんな人に嫌われても
「私には 私らしい私を好いてくれる人がいる」
と思うだけで
涙が出るくらい
勇気が出てくるよねと思うし
私が私らしくいてもいいと言ってくれる友達には
ほんとに心から感謝をしたいなと
それを伝えたいなと 思った夜
そして嫌なことをしてきたやつには
秒で心のシャッター下ろして
心のハリセンでシバき倒してやろうと決意した夜w
ちゃんと自分のために
戦うぞ!
2024.11.18