人生というキッチンで、なにを作りたいか。その先に、なにを食べたいか。
今日、ずっとわたしの中にあった強いフラストレーションから、ようやく解放された気がした。
毎日目に映る綺麗な景色のことを
どう表現したらよいのか分からなくて、
どうしたらそこでみんなと一緒に遊べるのかが分からない。
そんな答えのない問いを抱き続けて、もう数年が経っているように思う。
そしてそれは、
わたしという存在を、そしてわたしがみている景色を、毎日感じているまんなかを、歌にすることで、実現できるのだと知った。
歌なら、たとえどんなに離れていたとしても
どんなにバックグラウンドが違ったとしても
うーん、わたしがいなくなった後でさえも。
その曲を聴くだけで、
同じ世界を感じ、一緒にその景色を眺められる気がして。
この間、比喩というプレゼントをもらってから、わたしが何をしたいと思っているのか、これまでよりも伝えることができるようになった気がした。
だから今日は、その景色をみんなにもみてほしくて、noteに綴ろうと想います。
例えば、わたしたちはみんな、
ひとりひとり「人生」という名前の「キッチン」をもっているとしたら、
そのキッチンを使って、
いちばん食べたいものは何かを、一生懸命考えるんだと思う。
わたしたちは
なんでもつくることができるし、なんにもつくらないこともできる。
もし、何かつくりたいと思ったとしたら、
何をつくろうと考えて、よし、レストランに行って、つくりたいものを探してこようって、家から出て外の世界を歩いてみる。
和食、イタリアン、フレンチ、スペイン料理、街には色とりどりのメニューで溢れていて、どれを選んだらいいのか分からない。
だから気になるものを食べてみようと思って、お店に入って、とりあえず注文してみる。
口にいれた瞬間、おいしい!と思うメニューもあれば、マズイ!と感じるものもあった。一店舗じゃ分からないと思い、二店舗、三店舗と、ハシゴしてみる。
そんな体験から学び、最初に「ハンバーグ」をつくりたいと、思ったとする。
じゃあ早速おうちに帰ってつくってみよう!と思う。けれども、作り方が分からなくて、どのレシピが良いんだろうと思い、調べてみる。
きっとこれかな?なんて当たりをつけながら、スーパーに買い物へ行き、ちょっとお菓子も買ったりして、家に帰る。
歩き疲れたから休憩しよう!と思って、ソファに寝転んでインスタをみる。
そしたら1時間ほど経ってしまってて、
危ない危ない、自分のやりたいことはハンバーグをつくることだった!と思い出して、いざキッチンの前にたつ。
レシピをみながら、試行錯誤しながら、玉ねぎを切り替え、ひき肉をこね、たまごを割っていく。
そして途中で思うんだ。
「あれ、わたし、ほんとうにハンバーグをつくりたいんだっけ?」
なんて。途中で、ほんとうにつくりたいのがハンバーグなのか、ほんとうにそれを食べたいと思っているのか、分からなくなる。
だからちょっと不安になって、右隣に住んでいる人に相談してみようと思って、遊びにいく。
そしたらその人は「オムライス」をつくっていて、それがとっても美味しそうにみえる。
「なぜ、オムライスにしたのか」きくと、その人はオムライスをつくりたいと思った理由を、感動するようなエピソードを踏まえて、とてもイキイキしながら話してくれた。
気づいたら自分の目に涙が溢れていて、「なるほど、オムライスはそんな素敵な食べ物なのか」と思い、自分もオムライスをつくってみたいと思うようになる。
でも、今つくっているのはハンバーグだったから、そのつくりかけの材料を全て冷蔵庫に保管し、今度は余りの材料でオムライスをつくってみようとする。
たまごを割り、味付けをし、フライパンにかきいれ、丸めて、味見をして気づく。
自分がほんとうに食べたかったのは、オムライスではなかったんだと。
ああなるほど、あくまでもオムライスは、あの右隣の人にとって特別な意味をもっている食べ物で、自分にとって「いちばん食べたいもの」ではなかったんだと。
そしてなんだか悩んでしまって、今度は左隣に住んでいる人のおうちにおじゃまして、何をつくっているのかをきいてみる。
そしたらその人は机の上で「餃子」をつくっていて、「なんで餃子なのか」ときいてみたら、「なんとなく、直感で。」と、にっこり嬉しそうに答える。
そこでわたしは、ああなるほど、食べたいものに理由なんてなくてもいいんだと、気づく。
オムライスをつくっている右隣の人の、感動するようなエピソードは、とても魅力的に映るけれど、餃子をつくっている左隣の人の、心からワクワクしたような表情も、変わらず素敵だと思った。
だからわたしは、みんながどんなものをつくりたいのか気になって、一旦旅に出ようと決める。
日本だけだと少ししか分からないかもしれないから、いっそのこと、世界を回ってみよう。
そう飛び立ち、世界中でみんなが何をつくっているのか、それはどうやってつくるのか、実際に美味しかったのか、できるだけ沢山のことを吸収しようと、自分の足で歩き、自分の目でみて、自分の口で食べて、五感全身で感じ切る。
気づけば一年が経ち、
世界にはいろんなメニューがあることを知り、いろんな想いに触れ、ほんとうに食べたかったものを食べれて心底しあわせを感じている人や、時間をかけたのにあまり満たされなかった人、料理をしたいはずなのに気づいたらずっとテレビゲームをしている人、そして料理がしたかったことさえ忘れてしまった人、自分ではなく恋人が食べたいと思うメニューを一生懸命作っている人など、ほんとうに多くの人の喜怒哀楽に触れることができた。
その冒険は、自分の世界も広がりとてもとても楽しかったのだけれど、結局じぶんが何をつくりたいのか決めるのは、他の誰でもなくじぶんだということも改めて知り、久しぶりのお家に帰って、自分の気持ちと向き合ってみる。
大阪のおうちで食べた「たこ焼き」、美味しかったな、とか、スペインで食べた「パエリア」、最高だったな、とか、でも毎日食べたいのはやっぱり「和食」だったな、とか。
そこでようやく、考えるよりも、失敗してもいいから自分がこれだと思うものを何回でもつくってみようと気づく。
一体誰が、ひとつしかつくれないと決めたのか。
そして、やっぱり最初につくりたいと思った「ハンバーグ」を最後までつくってみようと心に決め、もう一度同じ材料を買いに、同じスーパーへ行く。
そしたら、旅した時にハンバーグを作っていた人のことを思い出して、その時教えてもらったレシピを取り出し、ちょっと計画変更して、食材を買い足したり、別のものに買い替えた。
そうして、お家に帰り、途中でワインを飲みながら、鼻歌を歌いながら、自分がいちばん食べたいと思うハンバーグを遂につくり上げ、その味は言葉にならないほど最高に美味しかった。
だから、自分でつくるハンバーグは、コンビニで買うよりもどんな有名なレストランで食べるよりも、なんだか分からないけどとにかく美味しく感じるんだということを知り、
次は、あの時あまり満たされなかった「オムライス」を、もう一度作ってみたいと思った。
今度は、沢山の時間をかけて、ありとあらゆるレシピを調べ、オムライスを作っている他の人にも作り方を聞きに行き、試作も重ねて、きっといちばん美味しいと思うオムライスのレシピを完成させることができた。
そうしてよし、早速つくろう!と思いキッチンに立つと、気づいたら床には埃が目立ち、集めた調味料は溢れ返り、場所が整っていないことに気づいた。
だからせっかくなら最高のキッチンでつくりたいと思い、数日かけて、元々のキッチンを改造し、好きなカラーのペンキを塗り、調味料の棚をつけ、冷蔵庫を新調し、そして最後に雑巾で徹底的に綺麗に磨き上げた。
そこでオムライスをつくる自分を想像すると、とても満たされた気分になったし、何より愛しいという気持ちでいっぱいになった。
そして、最高の環境で最高のオムライスをつくり、一口食べると頭からつま先まで、心からの幸せに全身が包まれた感覚になった。ハンバーグとはまた違う良さがあると思ったし、オムライスも「今の自分」が食べたいいちばんのメニューだったから、到底満足してしまって、今度は他の人につくってみようと思うようになった。
だから、大好きな人たちを呼んでおうちでホームパーティーを開いて、そこに来るみんなが食べたいメニューを事前にきいて、愛情を込めて、色とりどりのフルコースをつくった。そうしたらみんなほんとうに嬉しそうな顔で「おいしいね」った食べてくれて、その日はいろんな話しをして、笑って喜んで、最高の時間になって、日が沈むとともに、その日が終わった。
これまでは自分が食べたいものを考えて、自分のために作ってきたけど、それができた今、誰かのために、その人が食べたいものを考えてつくるようになり、みんなの笑顔をみながら、自分の手でしあわせをつくりだせることを知り、そんな時間はとても豊かだと思った。
その日はゆっくりとお風呂に入り、好きなアロマをたき、丁寧にマッサージもし、お気に入りの本を読んで、
さあ明日はなにをつくり、誰を喜ばせようと、イメージを描きながら、深い眠りについた。
ここで伝えたいことは、
もし、あなたの目の前に「人生」という「キッチン」があり、「料理をつくること」そのものが「生きること」だとしたら、一体、何をつくるかということ。
他の誰かから「カレーを作って」と言われ、何をつくるか考えなくてよい、ラクだからそれをつくるのか、
それとも、自分がほんとうに何をつくりたいのか、その先にある「ほんとうは何を食べたいのか」、答えのない問いと本気で向き合い、
それをつくって食べた時にどんな気持ちになるのかなんて、今はまだ分からないけれど、でもカレーよりも「シチュー」が食べたいというほんとうの気持ちに、自分で辿り着くのか。
「何を食べたいか」は自分じゃないと分からないし、自分じゃないと決められない。
それなのにわたしたちは、「何をつくるか」に気を取られ、例えば、そんな風にわたしたちの職業が料理人だったとしたら、例えば、日本で有名な三つ星レストランで働くことを目指したりする。
ミシェランで評価されてて間違いなさそうだから、自分の料理スキルも上がりそうだから、高いお給料ももらえるから。そのレストランはイタリアン専門で、豪華なキッチンでは毎日色とりどりのイタリアンが作られる。
そしてそこでは、レストランに来てくれたお客さんを喜ばせるのが最大の目的で、いちばん人気のメニューは「カルボナーラ」だったから、みんな一生懸命、いちばん美味しい「カルボナーラ」をつくるために、毎日練習する。そしてその日、レストランで働く人の中でいちばん美味しい「カルボナーラ」をつくることができた時には、店長からみんなの前で褒められる。お客さんも、心から喜んでくれる。
そしてそんなレストランに何十年も居続けると、いつしか、自分の仕事は「カルボナーラ」をいちばん美味しくつくることだと思い込むようになり、それが当たり前となり、「カルボナーラ」も含めてつくるジャンルは「イタリアン」が当たり前となり、ひたすらその世界で、お客さんを喜ばすことが生きがいとなり、働き続ける。週5で働いていると、お休みの日は気分転換やリフレッシュがしたくなり、ショッピングに出かけたり、お友達とランチしたり。自分の好きな仕事もできていて、プライベートも充実していて。
気づいたら、これまでのキャリアや努力を認められ、世間に評価され、有名雑誌に載ったり、インタビューを受けたりして。みんなその人のことを「分かりやすく」知って、自分の好きな道で成功した人だと、尊敬の眼差しを向ける。
だからそんな生き方自体は、何にも間違っていないし、仕事もプライベートも充実していて、誰かのために美味しい何かをつくりたいと思い実際に働き続けることは、とても素晴らしいことなのだけれど。
その人は、確かに世間的に分かりやすく「しあわせ」なのかもしれないけれど、きっと自分がほんとうは何を食べたかったか考えることもなく、考える意味もよく分からず、必要性も感じず、いつしか自分以外の「誰か」が食べたいものがまるで自分も食べたいものかのように思い込み、きっと一生、ほんとうに自分が食べたかったものは知ることもなく、そのためにつくる喜びも、ワインを飲みながら鼻歌を歌いながらつくる「その過程にしか存在しない種類のしあわせ」を感じることもなく、ホームパーティーのようなレストランとは「違う種類の豊かさ」を知ることもなく、そう、もっとディープなところに存在する、生きる喜びや幸せや大切な人との心の繋がりに気づかないまま、一生を終えるかもしれないということ。
一方で、最初のエピソードにあった主人公は、自分が何を食べたいかと本気で向き合い、そうすること自体がお金にはならないのだけど、それでも大切だと考え続け、分からなければ他の人に相談し、遂には世界を旅し、最終的にほんとうに自分が食べたかったものを2つも食べ、その喜びを知り、だから同じ喜びをみんなとも一緒に感じ合いたいと思い、そんな空間を自分でつくり、心からのしあわせを感じて眠りにつく。
世間の多くの人にこの生活を知られることはないかもしれないけれど、きっとこの人にとって、有名雑誌に載ることや、世の中で成功者として評価されることには、自分の価値基準を全くもって置いていないから、なんの意味ももたない。
だって、大好きな人たちとほんとうに食べたいものを「おいしいね」って味わえることこそが、人生の喜びそのものなのだから。
あまりに両者の世界線が異なりすぎて、どっちの時間の方がしあわせかを考えた時、ひとりひとり違うと思うのだけど、そして正解はないのだけど、きっとわたしは、ここに出てくるような三つ星レストランで働いた後、そこにはない種類の喜びや豊かさ、しあわせがあると気づき、それらを求め、世界を旅し、時間をかけて自分がほんとうに食べたいものを見つけ、試行錯誤を重ねてつくり、だからこそ食べた時に心から感動し、何人かをおうちに呼んで一緒に味わい、そしてそれをもっと多くの人と感じたいと思い、これから盛大なホームパーティーを開く、きっと、そんな感じなんだと思う。
そんなわたしが伝えたいことは、
もし今あなたがハンバーグをつくっていたとして、自分が今食べたいのはそれじゃないと気づいてしまったとしたら、ハンバーグが途中だったとしても、ほんとうは何を食べたいのかしっかり考える必要があって、
そのままハンバーグを最後までつくることももちろんできるのだけど、その時食べたハンバーグに心から満たされることはきっとなくて、なぜなら自分が食べたいものはハンバーグではなかったのだから。
だから違うと思ったら、軌道修正して別のメニューをつくるために、またイチからレシピを考え材料を買い、作り始める方がきっと良いだろうし、ほんとうに食べたいもののために、途中でそう意思決定できるような、勇気が必要だったりする。
もちろん、最初から何が食べたいかなんて正解は分からないから、いろんなものをつくって、失敗も重ねながら、それでも食べてみて、繰り返して、自分の「すき」を自分で見つけていく他ないのだと思う。
そしてもし、自分のレシピブックに限られたメニューしか書いてなくて、そこに食べたいものがないかもしれないと思ったら、自分の目で、足で、口で、それ以外にどんなメニューがあるのか、それは美味しいのか、自分が好きなのか、きっと探して、確かめる必要があるんじゃないかと思う。
そして、自分がほんとうに食べたかったのものを自分の手でつくりあげ、食べる喜びを知ったあとは、それをひとりで味わうよりも、みんなで味わった方がきっと素晴らしい時間になると気づき、今度はそんな空間をつくれるように、きっと誰もが動き出したくなるんだと思う。
そしてそれだけだと材料費にどんどんお金が消えていってしまうから、じゃあ週2は別の仕事で働くのか、それとも自分の好きなように運営できる自分のレストランをオープンさせるのか、料理人からは離れてコンサルにチャレンジしてみるのか、それとも料理が嫌いになりそうだからちょっとお休みして映画をみにいくのか、
そんな風に、自分が心からの喜びだと思ったことを人生のどこに位置付けるか、資本主義社会とどうバランスを保つのか、自分で決め、生きていく必要があるんだと思う。
そして、つくる喜びと食べる喜びの両方を知っていて、自分がいちばんイキイキできる居場所や料理の仕方を知っていて(それが高級レストランでも、おうちでもどっちでもよくて、自分にとって何がベストか向き合い、納得して選んでいることが大事で)、自分が「今」何を食べたいかを常に分かっていて、その上でみんなの食べたいものもつくったりして、その空間を一緒に楽しんで。
そんな人同士が集まる場所は、きっととても豊かな幸せに溢れていると思うから。
絶対に高級レストランが良いと信じ込んでいるような人たちに、ホームパーティーの素晴らしさを伝えていくことや、
自分で作るよりも人が作ってくれたもの食べる方がラクじゃん!という価値観を持っている人たちに、それでもあえて自分でつくる豊かさを伝えていくこと、
世間一般的に当たり前とされているような、そして何よりその人にとっての固定概念や枠組みを、否定することなく伝えていくことは、ここに書いてある比喩の何億倍も難しいことだと思っているのだけど、それでも。笑
そして何より感動するのは、こんなにも世界には沢山の食べ物が溢れているのに、偶然、ほんとうに偶然、「今いちばん食べたいもの」が同じ人と出逢ったりすることなんだ。
それを知って、なんでそこに辿り着くまでの道のりはこんなにも違うはずなのに、ぴったり同じになるんだろうって驚いて、不思議に思って、ものすごい奇跡を感じて、
そして次第に仲良くなって、それを「一緒につくろう」と決まった瞬間は、ほんとうに心躍るような、人生の一ページになる。
だってわたしたちは、(ここでの比喩表現として)食べたいものを食べるために生きているし、それをつくる過程をどれだけ楽しめるかが人生の喜びになるし、それを同じキッチンで一緒につくれるということは、ほんとうに最大のしあわせであり、豊かさなんだと思う。
だから、そう遠くないその時に想いを馳せて、その時最高の自分でいれるように、また明日も、積み重ねていきたいと思う。
あなたがほんとうに食べたいものは、なんですか?
そこに理由はありますか、ありませんか。
いちばん美味しいそれをつくるために、どんな努力をしますか。
どこから材料を集め、いつから始めますか。
途中で休憩はしますか、それともずっとつくり続けますか。
出来上がったら、どんなお皿で食べますか。
誰と一緒に食べたいですか。
その時、どんな気持ちになることを夢見て、つくりますか。
そんな風に夢を抱き、日々自分がほんとうに食べたいものを食べれた時の姿を想像することは、できていますか?
一見、意味のないようなことでも
それ自体が人生そのものなんじゃないか
そんな世界線で、ひとりでも多くの人と「おいしい」を感じ合える人生を、生きていけたなら。
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