掌編小説「風任せになっていく」

 七森こずえは洗濯機に呼ばれるまで、グラスの中に答えを探していた。〝朝〟と〝昼〟の箇所が空いたピルケース。喉を通過して以降、どこに溶けていったのかわからない。
 おろしたてのワイシャツがバスタオルと絡み合っている。引っ張り出そうとするも、冷たくなった衣服の重みでやる気にブレーキが掛かる。ランドリーバッグを引きずりながらベランダに繋がる戸を開ける。風がカーテンを蹴り上げる。
 難しい名前の病が身体に居着いてから半年が経つ。
 当然のように、普通の人生を送るものだと思っていた。劇的でないにしても、人並みに努力と苦労を重ねれば、ささやかな幸せがやってくる。結婚をして子どもを授かり、いつしか定年を迎える。両親やその他大勢のように。
「落ち着くまでうちにいたらいいよ」という彼の言葉に甘え、七森は仕事を辞めた。
 病院に通いながら、専業主婦として恩返しができればいい。そう思っていたが、引け目もあった。彼の仕事が大変だと聞く。いつまでも支えられてばかりではいられない。
 身を粉にして働いていた、あの頃に戻れるのかさえわからない。もしかしたらこのまま、何者にもなれず人生を終えていくかもしれない。そんな不安も、家事をしている時だけは誤魔化すことができた。
 洗濯物が小刻みにリズミカルを取る。七森は柵に肘を付き、陽に照らされた景色をぼんやりと眺めていた。さらさらとした空気が肺を満たす。柔軟剤の爽やかな香りを嗅ぎながら風に当たるのは気持ちが良かった。
 上の階から男の子の元気な声が聞こえてくる。
 ビューン。やっつけろー。キック、キック。ドカーン。ひとりで戦いごっこをしているのだろうか。あどけない声に耳を傾けながら、どんな遊びをしているのか想像してみる。ついツッコミを入れたくなるような展開でさえ、愛おしく思えた。とても平和な時間。七森は大きく口を開け、あくびをする。
 突然、叫び声が響いた。
 空気に亀裂を入れるような、切迫したものを感じた。思わずはっとして背筋を伸ばす。声の主はあの男の子だった。気になって上を見上げる。すると空からなにかが落ちてきた。
 咄嗟に身を引く。
 直線の赤い残像だ。
 再び柵に手を掛け、落ちていった先を探す。下は駐車場だったため、見つけるのは容易だった。目を凝らす。落ちているのは人型の人形だ。幼稚園で働いていた頃、子どもがお守りのように握りしめていたのを思い出す。
「ウルトラマン?」
 七森が口にすると、仰向けの人形と目が合ったような気がした。心臓が跳ねる。
 三分という短い時間の間に、超人的な力で怪獣を倒すヒーロー。どんなに強い敵でも決して諦めない。男の子の憧れの存在。腕を交差して真似する子どももいる。そんな正義の味方が駐車場で倒れている。
 故意ではないだろう、と七森は思う。だとしても高いところから落ち、仰向けになっている姿を見るのはいたたまれなかった。握り締めていた柵を離す。あのポーカーフェイスが脳裏にちらつき、七森を急き立てた。玄関を飛び出すと、階段を一気に駆け下る。
「あった」
 久しぶりに走ったせいで、胸が苦しい。七森は肩を上下に動かしながら、物言わない人形のもとへ駆け寄る。塗装がわずかに欠けてしまったくらいで、大きな損傷はない。それがかえって心配を加速させた。
「あの、拾って頂いてありがとうございます。この子が落としてしまったみたいで」
 申し訳なさをふんだんに詰め込んだ声が聞こえる。母親と思わしきエプロン姿の女性はかなり若かった。太陽に照らされ、素肌の瑞々しさが輝いてみえる。二十代前半。あるいは同級生でもおかしくはない。
 彼女の背後で、もぞもぞと動く気配があった。太ももにしがみつきながら、男の子がこちらを見ている。身長は五歳くらいで細身。さっきまで泣いていたのか、目は赤みを帯びていた。取りに行きたいけど怖い。そんな眼差しをしている。
 七森は膝を折り畳み、男の子と目を合わせながら「どうぞ」とウルトラマンを返す。
 すぐには取りに来なかった。怯えた表情を見せる彼に、母親は「お姉さんが拾ってくれたのよ。ありがとうってお礼を言わなきゃね」と背中を押す。七森は彼が話し出すタイミングを待った。警戒心を与えないように笑顔で迎える。すると一生懸命に口を動かし、「助けてくれてありがとう」と言った。
「うん。大事にしてあげてね。もう落としちゃダメだよ」
 小さな手にウルトラマンが渡ると、彼は口を横に引いて笑った。相当嬉しかったのか、その場でお尻をつき、わー、びゅーん、と遊びに戻った。その自由さに笑みがこぼれる。
 立ち上がって母親を見ると、目を大きく開き、口元を押さえていた。
「今、この子、『助けてくれて』って言いましたよね」
 七森は一度考えてから「言った気がします」と答えた。
 彼女の内側から、大きな熱を持ったなにかが込み上げていた。立ったまま崩れそうだった。胸の前で手を組み、深く息を吸う。彼女の指にいくつもの絆創膏が貼られていることに気付いた。
「子どもの成長って本当にすごいですよね」
 もしかしたら彼女も、劣等感に縛られていたのかもしれないと、七森は静かにそう言った。
「あなたも、お子さんがいらっしゃるんですか」
「いえ、子どもはいないですけど、子どもと関わる仕事をしていたので、現役ママさんたちに比べたら全然ですけど、すこしだけ気持ちはわかります。直接教えたつもりがなくても、ママやパパを見て、知らないうちに覚えてるもんですよ」
「だとしたら良いんですけど。わたし、子育てにあまり自信がなくて……」
 母親が言いかけると、男の子が急に立ち上がった。天高く伸ばした腕の先に、ウルトラマンがいる。陽の光をたくさん浴びて輝いていた。相変わらずの仏頂面だが、七森の目には活き活きと映った。シューン、と男の子は口ずさみながら駐車場を駆けていく。危ないから遠くに行かないで、と母親が追いかける。
 その時、風が吹いた。
 七森の足が半歩前に出る。風は背中を押した後、男の子のもとへと向かった。小さな体から想像できないくらいのスピードが出ていた。母親も追いつけないくらいに、強く逞しく、彼は笑いながら走った。
 ふと思い立ち、ポケットからケータイを取り出す。失礼かもしれないと思いながらも、素早くロックを解除し、画面を横にしてビデオを回した。風を味方に走る男の子と、奮闘する母親。七森の目を通して映る姿を、彼女に見てもらいたかった。
 男の子を抱きかかえた母親が戻ってくる。彼女は困り果てた様子で、息を切らしていた。いつか自分にも吹くだろうか。そんなことを考えながら、七森は母親の名前を呼ぼうとする。が、まだ聞いていなかったことに気付いて、代わりに大きく手を振った。

                   了

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