公平と平等
こんばんわ。白石です。note連続投稿*days160
今日は現の格差社会についての記事がありました。
格差の議論を混乱させる要因は、「公平(機会平等)」と「平等(結果平等)」をきちんと定義していないからです。これを50m競走で説明してみましょう。「公平」とは、子どもたちが全員同じスタートラインに立ち、同時に走り始めることです。しかし足の速さには違いがあるので、順位がついて結果は「平等」になりません。それに対して、足の遅い子どもを前から、速い子どもを後ろからスタートさせて全員が同時にゴールすれば結果は「平等」になりますが、「公平」ではなくなります。ここからわかるように、能力(足の速さ)に違いがある場合、「公平」と「平等」は両立しません。
このようなとき、5歳の子どもであっても、(足の速い子が1等になる)不平等を容認するのに対し、(足の遅い子が優遇される)不公平は「ずるい」と感じることがわかっています。人が理不尽だと思うのは「不平等」ではなく「不公平」なのです。 引用:Newspikes
自由ということもしくは自由を求めるのであればそれは一緒に生きる人全ての人に自由が与えられるということです。その結果、上記のようなことが起き、それが格差と呼ばれ叫ばれているのです。足の速い子は後ろからというのは資本主義に反しています。これを下記のように表しています。
生まれつき足の速い子も遅い子もいますが、知能もそれと同じです。能力に違いがある場合、「公平」と「平等」は両立しません。知識社会でも、競争を公平にしようとすると結果は不平等になります。
50m競走の不平等がさして問題にならないのは、ウサイン・ボルトでもない限り、足が速くても遅くても人生の結果には影響しないからです。
ところが高度化する知識社会では、知能の差は学歴や職業・収入に大きな影響を与え、ともすれば人生を左右してしまいます。
私がテニスで錦織圭と、将棋で藤井聡太と競えば、100回やって100回とも負けるでしょう。
私はその結果を「不公平」とは思いませんが、そのようなゲームを強いられたことはとてつもなく理不尽だと感じるでしょう。
これが「無理ゲー」の正体です。いわゆる格差社会です。
こういった社会になっていく中で、舵取りをしていくのが各国の政府なのですが、足の速い人・普通の人・遅い人がいれば普通の人と遅い人にどうすれば速くなれるのか?を教えてあげなければなりません。その教育制度が遅れているのも日本です。(先進国の中で)
多くの人がリベラル(自由主義)を叫ぶ中、一方では格差社会の是正も議論しなければなりません。このバランスをとるのは非常に難しいですが、こういったことに真剣に取り組まなければ超勝ち組と普通の人が負け組に入って、中間層がいない状態になりアメリカのように秩序が崩れる可能性があります。勝者総どりの世界・・・混乱が起きそうですね。
以前の日本も生まれたら、家系で職業や嫁ぎ先が決まっていたりなど今のような自由はそれほどなかった時代がありました。それも半世紀もしくは1世紀前というつい最近のことです。
今はしっかりとした知識を身につければ、ある程度の中で様々な選択が行えます。
正しい知識を正しく身につける!そしてそれを活用できるように努力する。
今の子供達が大人になった時はどんな社会になっているのか?不安ですが、それを変えれるのも今の我々なのかもしれませんね。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?