見出し画像

無限の命のナマケモノ

あなたは永遠の生命を持った永遠の存在になりたいですか?
大学の講義中、他の講義のレポートを書いていた私は、教授のこの言葉を聞いて、思わずキーボードの上で縦横無尽に動かしていた手を顎の下へと持って行ってしまった。

子供の頃は、自分がいつか死ぬという事実をすっ飛ばして「もし一生生きられたら…?」なんて考えたこともあったけれど、ちょびっと賢くなった今の私は、一生生きられることなんかできなくて、命は限られているということを知っている。
そりゃあ、突然、超超ノーベル賞級の医療技術が発明されて、世界が沸騰したように盛り上がることがあれば可能になるのかもしれないが、今のところ当分できっこなさそうだ。
医療も化学も専門でないド文系の私が見た限りではそんな感じ。
たまにSFドラマや小説では、亡くなってしまった愛する人を永遠の存在にしておくために、円柱の透明ガラスみたいなところに閉じ込めて泡をプカプカさせていたり、大きな冷蔵庫で凍結保存していたり、(たいていそれをパソコン越しに見ながら「愛してる」とつぶやいている)そんなシーンを見ることがある。
しかし、その愛する人AとかBなんかは、確かに永遠の存在になっているものの、自ら望んでそうなっているわけではない。遺された者の、いわばエゴであり、その結果AさんやBさんは永遠の生命を持つ存在になっているのだ。
AさんやBさんは永遠の存在となることを望んでいたのか?

私は永遠の存在にはなりたくない、というか、そうなったら非常に退屈な人生を生きる自堕落な人間になりそうだと思う。
命は無限ではない。
もしかしたら今日の夜、今日は目覚ましかけないで寝るか、なんて言って寝て、もう目を覚ますことはないかもしれない。
もしかしたら明後日、スーパーでバッグに入りきらないほどの長くて太い白ネギを買って今日は鍋にすっかと考えながら家に帰る途中、事故にあうかもしれない。
このように自分はいつか死ぬんだろうなあという前提があるからこそ、人との出会いや何かしら喜びを感じる時間を幸せだと思えるのではなかろうか、そう思う。
永遠の生命を手に入れた私は、死ぬまでに一回は死海で浮きながら本を読みたい、なんていう、フリー素材の写真への憧れを持っただろうか。雪が降ることが珍しい実家の庭に足跡とタイヤ痕でカチカチの泥色をした雪が2cmくらい積もっているのを見て、雪降ったーー!と写真を撮っただろうか。
死ぬまでになんて言ったって、そもそも死なないし、生きている間は死海だってマチュピチュだって世界遺産検定に出るような場所には行き放題だ。だからと言って、いや、だからこそ、地元の観光地には行ったことがないように、いつでも行けると思いながら多分行かない。
それに、いつでも雪なんか見れるわ、なんてコタツの中で丸まっている内に、いつのまにか四季の方がなくなってしまっているのではないか。

有限の命を味方につけると、いつもと変わらない時短ご飯にちょっとアレンジを加えてみよかとも思うし、レポート終わりのチューハイなんていうものは特別美味しい。

いいなと思ったら応援しよう!