秘湯にて思索に耽る。
乳頭温泉郷にいつか行こうと思っていた。ほとんどの人は、いつかで終わらせてしまう。いつかはいつのまにか忘れてされてしまう。その時に思ってたことを行動に移して、色んなことを経験するのは人生の豊かさでもあり幸せでもあると思っている。人はその時しか生きれない。
世の中が言う勝ち組ってなんだと思う?金が持ってる?奢侈な生活を過ごす?
くだらんそんなことは、幸せじゃない。金があっても、地位や名声があっても、不幸せだと思う人は、この世に数多にいる。
「知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである。」エピクロスはこう言った。
「ここから歩いていくの?」
「はい、歩くの好きなので。」
「まあいいけど、ここから歩くと鶴の湯まで1キロくらいだからね。気をつけて。」
運賃箱へ田沢湖駅から鶴の湯までのお金を投げ入れ礼を告げる。
便所サンダルで、山道をひたすら歩く。おれは、スニーカーが嫌いなのだ。まず、靴下を履くのがめんどくさい。織田作之助でも、裸足が好きっていう描写が出てくるが、あれと似ている。なんだか縛られているのが嫌だ。そして靴っていう足が事物の中に閉じこもっているのが観念的に嫌なのである。身体はもっと自由になったほうがいい。なんなら、ソクラテスのように裸足出歩いてみようかと思ったが、人の目が気になるし、どう考えても、未舗装の山道を歩くなんて絶対痛いだろう。
そんなくだらない独り言を呟きながら、歩いていると、俺を追い越して行く車の数々。なぜかわからないが、異様な目で見られる。まあ無理もない。
バックパックを背負って、半袖半ズボンと便所サンダルで山道を歩いている人なんて異様な光景だ。
10分くらい歩いていると芭蕉の道と称される張り紙が出てきた。やはり東北は、奥の細道のゆかりの地が多い。太宰治の津軽でも、芭蕉の句に言及していたり、この前、仙台駅を歩いていたら、芭蕉の辻と書かれた信号があって、なぜ芭蕉の辻なのかを調べようとして周辺を探し廻っていたら、石碑があり、耽読すると、元々は、ここは、芭蕉が奥の細道を執筆している頃、仙台の中心だったそうだ。おかげで、親友との待ち合わせに20分遅れた。
芭蕉の道が綺麗だったので、そこに入り込まずに、スマホで写真を一枚取ったついでに充電を見るとあと30%との表示が。しかも圏外である。まさにお誂え向き。
この旅の目的は、遁世にある。
このスマホは、我々の時間を消耗する。
この煩わしさがなんとも嫌で、いずれかは、これらの電子機器を捨てて、生きていこうと思っている。生き辛いだろう。しかし私としては、読書に費やす時間の方が重要であり、これらの媒体では、本質的なものを教えてくれないことに気づいた。
今やこれらの媒体で、簡単に誰でも情報が得れるので、世の中の試験なんてやっているのがバカらしく思う。知識をちゃんと用いる知恵を養うべきである。そんなことを思って歩き続けていると、鶴の湯という看板が見えてきた。本当に秘湯である。
8月半ばだったが、東北らしく湿度が低く緑に恵まれたおかげで、日本的な夏を感じることができた。皆は、温泉なんて夏に行くもんじゃないって言うけど、春夏秋冬を楽しむため、温泉は、いつ入っても楽しめる。
鶴の湯に着くやいなや段々と雨脚が強まってきた。雨宿りをしていると正面が、受付になっていないらしく、みんな奥へ入ってゆく。雨が止むこともないので、仕方なく濡れながら、受付の方に行ってみると、なんとも味がある。秘湯って一言で言っても、これだけ趣があるところも珍しい。昔ながらをよく残し、素晴らしく洗礼された温泉地である。行ったことがない人のために念のため松岡茉優が出演している行くぜ東北のJRの動画を貼っておく。
https://youtu.be/Cm8O2ziWWH8
予約した名前を告げると部屋に案内された。どうやら前金制ではないらしい。なんでだろうか。と聞いてみると料理の際に追加注文する可能性があるからとのこと。料理がいろいろあるのか。と旅費だけ持ってきた懐を目にして悔やむ。
とりあえず、旅の疲れを癒すために温泉に入ることにした。鶴の湯には、お湯の種類は二種類で白湯と黒湯があり、白湯は、「あちいあちい!」と言いながら家族ぐるみで入っている人が多かったが自分としてはちょうどよかった。そして露天風呂は混浴である。
熱々の白湯に飛び込むように入りながら、湯と会話する。これが旅の楽しみでもある。旅をすることで、いつもと違う空気と空間に触れる。特に温泉とかだとお湯が身を包んでくれるので、一人旅でも、寂しくはならないだろう。是非やってみてもらいたい。
ひと風呂浴びると、露天風呂も気になってきたので、脱衣所に飛び込み、浴衣を脱ぎ捨て早速入ってみた。雨は止む気がなかったので、露天風呂に入っている人は少ない。それが好都合。人は少ないほうがいい。都内のスーパー銭湯なんてものは論外だ。
それにしても、めちゃくちゃ温い。入浴しているのに、寒いくらいだ。
しばらく入っていると、若いカップルが来た。若いと言っても、おれよりも上だろう。
キャッキャ言いながら、歩いている。混浴の露天風呂で、若い女を見れるなんてまさに僥倖だろう。ワニにならざるを得ない。容姿は、フェフ姉さんの上位互換と言ったところだろう。悪くはない。そんな女が、お湯に浸かろうとした瞬間、おれは見てしまった。アレの正体を。そして、目を瞑り小学生の頃をしばらく想起する。目を開けたら、彼等はいなかった。私の傍には、雨が寄り添っていただけだった。
腹が減ったので食堂へ行くと山菜料理が出迎えてくれた。山魚、芋鍋、きのこ、筍などで色とりどりで、美しい。三泊したが、料理が、1日も被ることがなかった。どれも美味しくて、酒が欲しくなる。周りを見たら一人旅の人が多く、徳利を片手に晩酌をしている。ご飯はおかわりしても良かったので、軽く五杯は食べた。腹がいっぱいで部屋に戻ると持ってきた本を整理した。
モモ、種田山頭火詩集、プロタゴラス、ヒッピアス、学問の方法。後の方は哲学書だが、モモを読むことにある。あまり多くの本を持ち込むと、読むことに追われ、思考する時間がなくなる。これぞモモという作品が伝えたいことだった。我々の時間概念の懐疑。ベルグソンやカントのような難解な本でも無いので、2時間くらいで読了した。時間の本質を問うことではなく、時間という感覚をどう扱ったらいいのか、をモモは、我々に伝えてくれる。ここでエピクロスの言葉を引用しよう。「人生は延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆく。」
世の中の仕事には、ある程度関わったほうがいい。政治も然り。時間とは感覚なので、今までの哲学者たちを悩ませ続けた。エピクロスは、生は感覚であり、死はその感覚を失うことと言っている。
出来るだけ楽しむことが大事だ。全てのものは快に従うべきである。これもエピクロスが言っていた。今やっていることは楽しいのかつまらないのか、仕事は快か不快か、我々が思っているほど人生は短い、すぐに老いが来る。我々の生がなくなるまで楽しもうではないか。
旅は感覚的なことなので語ることは以上にしておく。