デカルト 方法序説講義 第二回
私たちの意見の多様性というのは、理性・良識の程度や有無によるのではなく、その使い方から生じてくる。形相や本質によるのではなく偶有性から生じてくる。
「良識は公平に分布されている。という発言の真意であろう。使い方によって良識つまり理性はいい方向や悪い方向へ傾くのであり、例えば無知という状態から脱却することは可能である。(精神病というものは例外になる)だからバカだの聡明だのということは即断できない。無知状態から逃れることができるのである。だからデカルトはこの理性という正しい使い方を発見したのである」
読書に時間を使いすぎると現実世界では異邦人のような立場になってしまうため、現実世界の旅へ出たが、まだ数学の真の用途に気づいていなかった。
「読書は現実世界の実践の補助的役割として持ちこまなければそれ自体が目的になってしまう危惧がある。だから、現実世界の社会としての一人という立場で私はどうすればいいのだろうかという時に哲学を道具としてちゃんと持ち込まなければならない。そのためには、理論を規則化して実践としての行為へ橋渡ししていかなければ何の意味もない。」
文献学から離れ世界という大きな書物を探求する。学者が書斎でめぐらす空疎な思弁は、真を見せるために豪華絢爛になり本人の虚栄心を満たす。
「世界という大きな書物とはモンテーニュの有名な比喩である。学んだ事柄を活かすとき、学問の真の目的は成就される。それが変遷してゆくことが当人にとっての別課題になる。書斎に籠ってないで、哲学を使っていこうぜ、という強い意気込みがうかがえる。」
「判断が全てであり、真偽の尺度で図るしかないのである。誤った判断を選んだ場合、死ぬ可能性もあるからである。」
学者が書斎でめぐらす空疎な思弁は、真らしくみせるために豪華絢爛になり本人の虚栄心を満たす。
生きられた懐疑:これまでの学問を疑い、世界での様々な実験を通じて真と偽を見分けていく道をとる。
「判断しているという自分は絶対的な存在である。学校概念の必要性もあり、そこでは理論形成という課程を経ることにより、生きられた懐疑への移行を図っていかねばならない。」
自分で自分を導いていくことの必要性に気づく...ただしまだ他人の意見をすっかり捨ててはいない、まずは真理を認識するための方法を探求したいと考える。
「主体として真理を認識したとしても、客体で類比してみると、それが誤謬であるっていうこともよくある。だから、真理なるものを認識するのは大変!」
デカルトは論理学、幾何学、代数学の短所を補いつつ長所を含むような方法を考えた。それが四つの規則である。
明晰判明で真とみなすことには、ライプニッツの批判がある。区別することだけではなく、そこに含まれれる要素をすべて認識して初めて明証的ではないのか?
方法を哲学や数学へ適応していく。人間が認識しうる事柄はすべて同じ方法でつながっているので、どこまでも到達することができる。
「カントを読んでいて思ったのだが、数学と哲学は通ずるものがある。」
蓋然性の可能性が不透明な場合は、一度決めたら、どんなに言われようが貫徹する。
条件1:どれがもっとも真なる意見か見分ける能力がわれわれにないとき
条件2:実践に関する限り→形而上学をやる第四部では冒頭で蓋然性しか持たない意見は偽とされる。
ありうる解釈:「われわれがその意見を真実度の高いものとみなさなければならい理由それ自体が真実度の高いものだからだ」→知性によってどれが正しいかわからなくても、実践における意志の決定は間違いなく一つに定まるという意味で真実度が高い、ということ。条件1、2において、どんな意志の決定も合理化される。
知性と意志の区別が重要:知性によって可能だと示されたものだけを意志は望みうる
→我々の力の範囲内にないようなものは絶対的に不可能だと知性が信じるように習慣づける
→すると、意志は力の範囲外のものを望まなくなるので、いかる残念な気持ちも生じてこない
知性は、何かを認識する。意志は何かを望んだり決定する。
17世紀における神とは何か
啓示神学と自然神学:信仰の神と哲学の神の違い
中世以来、神学は大きく分けて二つのものに区分されてきた
啓示神学は、聖書と教会の伝統とに基づいて三位一体の神を信仰することを中心とする
自然神学(理性神学)は聖書によらず、理性的世界知と人間知に基づき神の存在と本質を考察する
アリストテレスが形而上学と神学を同一視したさいに述べていたのは、まさにこの自然神学であった。
「神にメスを入れるというのは、自然神学的行為である。だから、神学者にとって哲学者は忌み嫌われる存在でもある」
最も完全な存在という神の規定について
完全性とは、もののもつ肯定的性質のことであり、知識をもつということは完全性だが、無知であるということは不完全性である。最も完全である神は、あらゆる肯定的性質を最大程度含む
「全知を握っている絶対的存在者が神という位置である。これはカントも論破できなかった。時代とともに神の定義や定理が変遷していることにある」
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