自分を救う
久しぶりの早起き。静かで、まっさらな時間。
腰を据えて文章を書こうと思う、この時間は久しぶりだ。今思うと、あの頃の僕は書くことで自分を保っていたんだな。
書くことは自分自身を救う行為だった。そしてそれを発信することで、「実は私も…」というDMを色んな人から何通ももらった。自分だけの悩みや葛藤だと思っていたことが、自分だけのものではないということが分かった。
僕は相談されるのは得意だったけど、自分から相談するというのは苦手だった。あまり弱みを見せたくなかったし、まあ要するにかっこつけていたのだと思う。
でもその頃から、他人に相談するということが出来るようになっていった。
相談することで、自分にはこんなにたくさん味方がいたのだと、世界は思ったよりも優しいものだと再確認することができた。
意地悪される環境にいたり、自分をねじ曲げて他人の顔色を伺わなくてはいけない環境にいると、そこが自分の世界、自分の現実の全てだとおもってしまう。
でも外側には優しい現実もちゃんとある。僕はこの半年くらい色んな人に相談することでそれを思い出していった。
それでも暗い気持ちになってしまうときは、とにかく手を動かすことにした。
手織りをし、竹細工をして、畑で野菜の世話をして花を摘んで生けて。
織物の糸や道具を入れる大きな棚をつくり、作業場として借りられることになった蔵の掃除をした。防塵マスクをつけて100年物のホコリとネズミの糞まみれになりながら、大量のゴミを軽トラに満載しクリーンセンターを何往復しただろう。ひたすら手を動かしていた。
好きなことに夢中になっている間は嫌なことを忘れられたし、好きな自分へ一歩一歩進んでいる実感があった。手を動かすことが自分を救う行為だったのだ。
そういえば、救うとか救われたとか安易に使ってしまうけれど、正確にはどういった意味なのだろう。辞書を久しぶりに引いてみる。棚にあった学研の小学国語辞典。
長男が小学校に入ってから「この言葉ってどういう意味?」とよく聞かれるので、一緒に調べるために買ったものだ。
僕たちは他人が使っている言葉、なんとなく耳ざわりのいい言葉をなんとなく同じように使ってしまう。それは自分の言葉ではないのだと思う。僕は自分の言葉を持ちたいし、子どもたちにも自分の言葉を忘れないでいてほしい。
救う、救いという言葉を引いてみる。
【救う】(危険な状態やこまった状態などから)助け出す。
【救い】①すくうこと。助け。②気持ちのなぐさめになること。
なぐさめ、という言葉が気持ちに近い感じがする。次は「なぐさめる」を引いてみよう。
【なぐさめる】悲しみや苦しみなどをわすれさせ、気持ちをやわらげる。いたわって元気づける。
【なぐさみ】気晴らし。楽しみ。
うん、これだ。僕が手を動かしながら感じていた気持ちはこれだったんだ。
信頼のおける友人に相談をしてなぐさめられていたのを、僕は自分で自分にやっていたのだ。
手を動かすことは単なる気晴らしで楽しみ。そして悲しみや苦しみをわすれさせ、気持ちをやわらげ、いたわって自分を元気づけるもの。
やればやるほど楽しくて、自分が元気になっていくもの。
これって最高じゃないか。
国内だけでも年間2万人以上の人たちが自ら命を絶ってしまうような世の中で(未遂やギリギリのラインに立っている人を含めたら何万人いるのだろう)、ただ心身が健康で元気に過ごせるということがいかに貴重なことであるか。
僕みたいに自分自身に厳しく当たってしまったり、つい悪い方に考えすぎてしまったりする人は、考える隙を与えないくらいとにかく好きなことで手を動かすという時間が必要なのだと思う。
自分の性格の根本的解決にはならないかもしれない。でも人の性格や考え方なんてなかなか変わるようなものではないし、それに解決しなければとなると、今の自分が悪い性格であると証明することになってしまう。そうするとまた自己否定の波がやってくる。この波にのまれるのは辛い。
だから悪いのは、間違っているのは性格ではなく方法なのだ、ということにしておく。性格はそのまま、上手くいっていない方法だけを変えて、健康でいられる方法を編み出していく。僕にとってその方法が、とにかく手を動かすということだった。
考えすぎないように、自分の健康のために好きなことで手を動かすということ。
大義はない。ただの気晴らし。でも、それでいいじゃないか。他人の評価とか意義とか考えるからうまくいかないんだ。
自分が自分のためにやって、気が晴れ元気になる。もうそこで目的は達成しているから、他人の評価なんて必要なくなる。ま、あったらあったで嬉しいけど(笑)なかったから気分が落ちるということはなくなる。
そうして出来上がった、上手ではないけれどお気に入りのもの達は、まるで家族や友人のように僕を支えてくれている。
僕がつくったものたちは、今の僕をつくっているものでもあるわけだ。
ものをつくっているようで、自分がつくられていく。
それが僕にとって、自分を救うという行為そのものなのだ。