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“描くこと”に迫る『デッサンの眼とことば』

オトナの美術研究会の月イチお題note企画、今月は「#おすすめの美術図書」。いつも月末ギリギリになってしまっているけど、今月はわりと早めから書きはじめている。

わたしがオトナの美術研究会に参加して5ヶ月ほどが経った。メンバーのみなさんは鑑賞側の視点を持ったかたが多い。投稿されるnoteや掲示板の書き込みには、自分の視点との違いに多くの学びがあって、いつも楽しませてもらっている。

わたしは描く側の視点で鑑賞することが多い(というか、どうしてもそうなってしまう)のだけど、どうせなら鑑賞専門のかたがたと視点の共有ができれば、あらたな気づきが得られるかもしれない。

そう考えると、すぐにこれについて書こうという書籍を思いついた。

本だらけの我が家。展覧会図録のおかげで美術関連の図書はかなりの割合を占めている。ほかには普通の画集もあれば、美術雑誌のバックナンバー、美術史もの、特定の画家の伝記、美術を題材にとった小説もある。

そして曲がりなりにも「絵を描く人」を名乗っているので、それなりにあるのが技法書。最近は制作過程の動画がいくらでも公開されている、とはいうものの、わたしはまだまだ印刷物から入る世代だ。ネット普及以前から描いているから当然なのだけど。

画材なんかに関しては、溶き油の調合や顔料とメディウムの相性についてなど、デジタル情報よりも自分で書き込んでカスタマイズした書籍のほうが使い出があったりする。描く作業がアナログなのでやっぱりそのあたりもアナログだ。

また前置きが長くなってしまった。そんな技法書のなかにあって、ちょっと異色だけれどもわたしが全力でオススメしたい一冊が本noteで紹介したいもの。T.S. ジェイコブズ著『デッサンの眼とことば —人物をいきいき描く知覚のアプローチ』(1991年、エルテ出版)だ。

(Amazonのリンクだと中古品が出てくるので、ひょっとして絶版か。だとしたらちょっと残念・・・。)

よくある技法書は道具の説明、使い方を作例とともに紹介するパターンが多い。しかし本書では特定の道具についての説明はいっさいされていない。技術的なことは明暗とかフォルムの捉え方ぐらいで、ほかの技法書でもカバーされそうなことをあっさり書いているだけに過ぎない。

それではいったい何にページが割かれているのか。

筆者の手による作例も多いけれど、文字では圧倒的に「デッサンの心構え」とか「モノの見かた」といった概念論について書かれている。

眼前の対象を描くデッサン。突き詰めれば、それは「描くことを通して世界を知覚すること」であり、描き手の視点は対象をとおして世界に向いている。

描かれた作品には、描き手本人の視点と洞察だけではなく、先人たちが通過して来たであろう試行錯誤と、中世以降、ひょっとすると古代からの歴史的な絵画史に反映されてきた洞察が垣間見えるんじゃないか。

この本を読んでいると、そんな心持ちになってくる。そしてそれはおそらくあたっている。

もったいぶっていても進まないので、本書からいくつか抜粋しておく。翻訳者の文体のクセが強くて読みづらい箇所があるけれど、書かれていることは伝わるかと思う。

線を描いてものの輪郭をはっきりさせるという発想は,触覚と切り離せないと思います。デッサンの主題からはずれているように思うかもしれませんが,これこそ,デッサン発達史の核心に迫るものなのです。

14頁

デッサンの精神的な側面は,純粋に哲学的です。なぜなら,描き手の世界観や人生観をあらわすからです。

23頁

彫塑的・触覚的アプローチは光学的・視覚的アプローチと対立しています。これらのアプローチは,「象徴」と「再現」ということに関連づけられます。「彫塑的」と「視覚的」とが対立するのと同じように,この二つのデッサンの哲学は根本から対照的で,生まれ方も結果も異なります。しかしいずれも,自分自身と外界との接触という共通の母体から誕生しているのです。

24頁

先入観が頭の中にあると,それが邪魔をして,眼に映った形がどのようなものであるか気づかなくなります。実際,ものの属性について「あれはこういうものだ」とあらかじめ固定観念をもっていると,「私たちが知覚するのは形であって,名前のある事物ではない」ということがわからなくなってしまいます。

27頁

モデル(人間とはかぎりません)に同一化する能力を開発すると,相伴ってデッサンも上達します。もしかすると実現不可能な完ぺきさを心にえがいているだけかもしれないとわかっていても,ある臨界点に達することはできます。そこをこえると,デッサンは闘いから実現と上昇のプロセスに変わる。しかしその変わり目に達するまでは,描く闘いがあまりに苦しくて,同一化に必要な精神統一状態を得られないのです。

34〜35頁

デッサンでは,最高の先生かつ確実な(そしておそらく唯一純粋な)ガイドは,手の下にある白い紙です。紙の空白は,色眼鏡なしに私たちを案内してくれます。それはどんな意見にも染まっていない意識のようなもの。自分の知覚を映し出す純粋な鏡。白い紙は,先入観や偏見のまったくない紙そのものの状況へ,描き手を導く力を秘めています。

40頁

デッサンは,マスターをめざすうわっつらの技術ではなく,もっと自分の一部となるべきもの。進歩したアーティストほど,あるデッサンについて考えてから実行するのではなく,むしろ描く行為のなかで,そして描く行為をとおして,考えかつ感じています。画面にありのままの姿を見ているのです。

46頁

奥深く根づいた思い込みや象徴的な先入観は,自分自身の存在(およびその構成要素としての肉体)の知覚のまわりをぐるぐるとめぐる。だから教材としては,人物像は格好の画題です。

58頁

微妙な違いですが,重さから生じる眼に見える作用ではなく重さそのものを描くという発想はきわめて象徴的で,これも触覚的な知覚の翻訳。真に再現的なデッサンでは,光をあらわすのと同じように,重さをあらわします。

87頁

おもしろいことに,しかも逆説的ですが,構造的に直線である線(壁の線)が眼にはカーブして見え,唯一あきらかな直線はまるい地平線だった。しかし,これが現実のものの見え方なのです。

95頁

ここで気づいてほしい一番のポイントは,遠近法への真に再現的なアプローチは従来のどんな制約からも自由である,ということ。さらに私が望むのは,象徴的にではなく,見えるとおりの効果を描くよう努めてほしいということです。象徴的な先入観が象徴的でない知覚にドンとぶつかってくると,恐ろしい結果をまねきます。

95頁

トーンの基調には流行があります。たとえば,18世紀の美術では暗い作品が多くみられます。そして今日では明るさを好む風潮へ向かっています。流行の影響を受けないよう,注意しましょう。

102頁

陰影を明暗の一形態ではなくまったくの光の不在だと考えると,いのちなき無の状態として描きがちです。死物の足跡が光の輝きを見せているか,さもなければ一瞬の反射光に照らされた不活性の表面。このような暗部の処理の誤りはデッサンより絵画の方が深刻ですが,やはりふれておいた方がよさそうです。陰影は,活性の,暗い光輝として扱うのです。

104頁

体験と実技を豊富に積めば,反射する光の量を相対的に見定められるだけでなく,使っている画材特有の表現で翻訳するための最上の方法と,その画材で何ができるかという範囲がわかるでしょう。こうして,私たちは画材をとおして体験する。画材は身体的な生きたプロセスと一体になり,私たちはみずからのアートを通して生きる。

119頁

この線の概念をつきつめると,デッサンは改善され続ける,つまりある意味では,絶対的に完成されたデッサンなどないということになります。個々のデッサンは,かたよりのない知覚に通じる果てしない道に沿って立つ道しるべ。その1枚1枚が示すのは,自分がどれだけ進んできたか,どこにまだたどり着いていないか。

126〜127頁

自分の作品のなかで世界はこう見えるだろう,というように世界を見ているので,自分のアートは本物の世界に似ているなどと思い込んでしまう。けれど,自分の作品が似ている相手は,自分が注目し認識している世界にすぎないのです。それは,シンボリズムが知覚のなかにじわじわと入り込んでくる巧妙な手口なのかもしれません。

132頁

引用箇所のページ番号からもわかるとおり、全編この調子なのだ。こんな技法書はなかなかない。

そして図版。もちろんすべてではないけれど、作例の説明もこんな感じ。

「まったく当然すぎるようだが,デッサンは知覚した対象を示唆するか象徴するだけで,決してその対象をそっくり複製することはできない。」11頁
「触覚的アプローチ」と「視覚的アプローチ」19頁
「動作する人物をうまく描くには,モデルを写生するデッサン経験を積み,人体構造の深い知識を得て,外観の意外な形を受け入れられるようにする。」40頁;「過去の美術を理解すると,新鮮なイメージをもって自由なものの見方ができる。」41頁

いかに世界を知覚するか、先入観から逃れて自由に追求できるか。本書で述べられている、こうしたデッサンの真髄は、まさに“画家の眼”だと思う。

わたしがこの本を知ったのは、一日一画をはじめた2005年だった。毎日毎日デッサンしていて、描けば描くほど発見があった。この感覚を言語化できないものかと調べていて出会ったのがこの本だった。詳しくはもう忘れてしまったけれど、ネットの匿名掲示板で紹介されていたものだ。

2021年の10月に「一日一画の舞台裏」と題して書いたnote。このなかで異なる照明で描いたトマトについて触れていた。

トマト自体にフォーカスした左のデッサンと、空間のなかのトマトを意識して描いた右のデッサン。

実はこれ、この本の「触覚的アプローチ」と「視覚的アプローチ」(上記引用画像2枚目)を実践したものだった。この視点の違いを実践してみて、西洋絵画史では中世・ルネサンスまでとバロック以降の視点の差だと気がついた。そして美術の様式としては洋の東西の差異にも通じるんじゃないかと考えている。

この本に書かれているのは、絵を描く側の心構えではある。けれど、これこそ観る側にとっても知る価値があるのではないかとも思う。なぜならば、多かれ少なかれ過去〜現在の表現者の多くがもっている視点だと思われるからだ。

“絵を描く”ということは“視覚を通じて世界の本質に迫る試み”とも言える。写実絵画を描いているとしばしば言われるのが、「上手に描きましたね」だけど、描く側としては上手に描きたいのではなくて「真実に迫りたい」というのが感覚に近い。絵を描くことをとおしてこの世界の認識を深めようという感覚は、表面的に上手に描くことよりも遥かに重要で価値のあるものだと思う。

本書は英語から和訳されたものなので、翻訳のクセも強く、やや読みづらい。英語が難なく読めるかたには原書のほうがおすすめかもしれない。かく言うわたしはまだ英語版を入手できていないのだけど、機会があれば英語で読みなおしたいと考えている。


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