ゲーム条例でゲームの時間が規制されることが正しいか正しくないかなんてわかんないよって話
ゲームをやってなかったら他のことに目を向けることでもっと幸せだったかもしれないし、ゲームという楽しみを失い不幸になっていたかもしれない。
それは誰にもわからない。
香川県のゲーム条例についての話です。
先日ニュースで見ましたが、この条例が憲法違反ではないかと当時高校生だった男性が起こした訴えに対し、裁判所からは合憲の判断が出たそうです。
裁判費用も争われるなんてめちゃくちゃ揉めてますね…。
そもそも
「ゲームの時間を制限すること」がいいか悪いかなんて、わからないんですよね。
私は多分毎年1000時間以上ゲームに費やしていると思うんです。
下手したら1500時間くらいになるかもしれません。1日3時間×365日で1000時間超えるわけですから。
で、子供の頃どうだったかなって思い返してみても、多分今とそんなに変わらなかったような…。気がします。
ゲームを始めたのは小学校に入る前。それから外で遊ばずゲームばっかり。部活も入らずゲームばっかり。中学までは勉強ができたけど、高校からはもう勉強も運動も学年最下位レベル。
そんな10代を過ごしてきたわけですが、一応今はちゃんと働いて、ヒーコラ言いながら東京でなんとか一人暮らし出来るくらいは収入を確保し、納税しています。
ということで、ゲームをやりすぎた結果社会に全く適応できなくなった…というわけではありません…が、では今自分が完璧超人かというと、当然、そんなことはありません。むしろダメな部分が多いです。
この「ダメな部分が多い」今の状態の原因は、ゲームをやりすぎたせい?
それとも、ゲームのプレイ時間は無関係?
そんなの誰もわかるわけないんですよね。
さらに言えば、今の自分が「幸せか不幸せか」なんていうのも曖昧な価値観で。
例えばゲームをしていなければその時間勉強に費やしてもっと偏差値の高い学校に行けていたかもしれないし、もっと色々な人と知り合えて、もっと楽しい思い出がたくさんできたり、何なら結婚していたかもしれない。
家に籠って一人でゲームばかりしている30代にならなかったかもしれない。
確かに、そういう可能性もあります。
でも、じゃあそれらのような「得られなかったもの」が、ゲームをしていなかったら「必ず得られた」か。そんなこと、誰にもわからない。
なんなら、ゲームをやっていたおかげでゲーム音楽のDJとして色々な経験ができたうえに、TBSラジオにも出演できました。それこそ10代の頃に歌詞を暗記するほど聞いていたRhymesterの宇多丸さんと、直接話すことも出来ました。
また、DJをすることで、DJをしていなかったら出会えなかった沢山の人にも出会えたし、DJをしていなかったら体験できない貴重な経験ができました。
もちろん、こういった経験がかなりのレアケースであることはわかっていますが、しかし、ゲームによりどう考えても幸せです。
だから、まず前提として頭に入れておかないといけないことは、ゲームをすることでマイナスな影響があるかどうかなんて、誰にもわからないってことなんですよね。
医学的に
そりゃあ、視力が落ちるとかはあると思います。
視力が落ちたらこの世で生きていけないとか、裸眼視力が0.3以下になったら死刑になるような社会なのであれば、ゲームは今すぐに無くすべき文化です。
でも、そうじゃないですよね。
視力が悪くなるからゲームをやめるべきならば、事故に遭う可能性があるから自動車も廃止すべき。生活習慣病になるから甘いものやしょっぱいものを食べることは禁止すべき。そんな道筋が出来てしまう気がします。
何より、今回の判決における裁判長の言葉には「医学的知見が確立したとは言えない」という言葉があります。医学の部分ではまだ、ゲームが子供に与える影響ははっきりしていないんです。
だったら、あくまで医学的な部分についてだけですが、「疑わしきは罰せず」でいいんじゃないかなあ。端的に、そう思います。
(一方、裁判長は続けて「過度のネット・ゲームの使用が社会生活上の支障や弊害を引き起こす可能性は否定できず、条例が立法手段として相当でないとは言えない」と指摘されています)
有害か否か
おそらく、「ゲームは子供にとって有害か否か」は、結論が出ないと思います。または、結論が出るまで数十年はかかるんじゃないでしょうか。
そもそも有害の定義を決めないといけないですし、有害か否かは医学的な部分を除けば、主観的なものになりますよね。
そんな前提の中、結局自分の人生のifルート…ゲームが存在していなかったルートについて考えるなんて、証明できないんじゃないかなあと思います。
ゲームによっては暴力的であったり、犯罪をテーマにしていたり、性的であったり、確かに多感な時期にそういったゲームに浸り過ぎたらちょっと心配なものも、無いわけではありません。
これがもし、子供が自由にアクセスできるもの、または強制的に体験させられるものであったら問題だと思います。学校の授業で犯罪を推奨するようなビデオゲームが行われていたら問題です。
でも実際は、そういう暴力や性などについての情報、エンタメ作品などは、少なくとも子供に対しては保護者がコントロールできる、というか保護者がコントロールすべき部分ではないかと思います。
テレビでそういうシーンが流れたらチャンネルを変えるという家庭はありふれていますし、ゲームでもちゃんと保護者が監督することを前提とすれば、そこまで怖いものでは無いのではないでしょうか。
結局、過去は振り返ることは出来ても変えることは出来ないし、もし変えられたとしても変わった先に幸せがあるかどうかなんて、わからないわけです。
これから
香川県のゲーム条例が合憲と判断された以上、香川県では少なくともルールを守ることは間違いではない(正しいとは言っていません)状況になるのかなと思います。
ゲームをたくさんやって幸せになった人もいれば、不幸せになった人もいます。その不幸せの部分を少しでも減らしたい、そういう考えはわかります。
ただ、ひとつだけちゃんと向き合わせないといけないのが、「ゲームを制限されたことで不幸せになってしまう人がいないか」ということです。
本当に、ゲームを制限することで子供の成長にプラスに働き、その子は幸せになり、「ゲームを制限されて良かった~」と将来思うのか。
結局、ゲームをやるかやらないかを決めるのは自分であることから、ゲームという身近なコンテンツに対して「制限を守るのか守らないのか」を他人任せにしないことが、とても重要になってくるのではないかと思います。
それは子供、親、関係なく、「ただ制限されているからやめさせたほうがいい」といった「ルールに従う/ルールを破る」ではなく、ルールそのものを疑う。自分の頭で取捨選択をする。これが必要なのではないでしょうか。
そしてこれは小さい子には酷ですので、代わりに親が考えないといけませんね。むしろ、親も子も一緒に考えないといけないと思います。
様々な条例がありますが、行政も、なにも「国民全員不幸になれ!」と思って条例を制定しているわけではありません。それはもしかしたら明らかに違和感のある条例だったとしても、幸せになってもらいたいからこそのルール作りをしている…と信じています。
ただ、その大きなルールは個別的に作用しないというのも事実。特に家庭に介入するようなルールは、千差万別の家庭環境において、効果的に作用することもあれば真逆に作用することもあると思います。
だからこそ、そのルールが自らの家庭環境に効果的かどうかは、「自分の頭で」考えないといけないんじゃないでしょうか。
もちろんそれで「ゲームを制限した」または「ゲームを制限しなかった」どちらかの選択をし、それが将来的にその子供のためになるかどうかは、わかりません。
でも、真摯に考えて家族でその考えを共有すること、コミュニケーションを取ることは、その家族にとってマイナスにはならないんじゃないかなあと、私は思います。
説明すること・納得すること
ゲームを親が制限する。
これは子供からすれば大きな不満です。私もそうでした。
でも、その際に何か親としての考えや理由を言ってくれたら、まだ少しは納得できたかもしれません。
なぜゲームを制限するのか。その理由を面と向かって言われたこと、無かった気がします。
少なくとも、「県が決めたルールだから」といってゲームを制限されるよりは、しっかりと説明することが、親子関係として健全なように思えてなりません。
結論、ゲームを制限したからといって子供の成長にプラスになるとは限らないです。一方で、ゲームを無制限にやらせることが、子供の成長にプラスになるとも限りません。
これは(医学的な部分を除けば)個別性が強いものだと思うので、一概には言えるものではないし、条例で定めるにはまだ早い、情報不足というのが現状ではないでしょうか。
じゃあどうするか…。
もう論点がずれますが、やっぱり「納得できるかどうか」じゃないかなあと思います。
そりゃあ、ゲームをやっていてよかったこともあればやらなければ良かったと思うこともあります。
それが自分で決めたことならまだ納得できますが、もしそれが親から強制されたことなら。「ゲームをやるな」と親に言われ、従った結果とても自分の人生にマイナスになったら、なかなか自分の中で消化できないのかなと思います。
でも、例え自分の人生にマイナスだったと思うことでも、親が本気で自分のことを考えてやってくれた行動なら、捉え方もきっと、ポジティブになるんじゃないでしょうか。
何も、子供のときにやっておけばいいこと、制限すべきことなんてわからないし、やらなきゃよかったことなんて誰でもあるものですよね。
こういう、その子供にとって将来どう転ぶかわからないことは、大人になってからの捉え方ひとつかなと考えます。
とてつもなく嫌な記憶にも、ポジティブな記憶にもなるのかなと。そして、どんな記憶になるかのきっかけのひとつが「納得できるかどうか」な気がします。
こういうのは子育てを経験した人のほうが説得力があると思いますし、ただゲームをした経験が人より多いだけの男の考えですが…。でも、私自身が育った経験として、納得できるものはどんなことでもポジティブに考えられる要素があるし、説明をされず強制されたものは、何歳になってもいい思い出には変わってないなと感じています。
とりとめのない記事になってしまいましたが、結局考えてもわからないものはわからないので、今白黒つけるのは揉めるし決着がつかないという考えです。
なんとなく物事は白黒つけないとすっきりしないのはわかりますが、今はまだ「グレーという色も存在する」、そんな捉え方でいいのかなあと、なんとなく思いました。
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