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書評 #16|続 横道世之介

 大学を卒業した横道世之介の一年を描く、『続 横道世之介』。大学という庇護は消え、荒波が強まる社会。前作の空気感をまといつつ、その中を駆け抜けていく世之介の物語。

 何かに真剣に打ち込む。夢を実現させるため、必死に努力する。そういった汗のようなものは、世之介の日々からは感じられない。客観的に捉えるとすれば、バイトで生計を立てている彼は決して強い立場にはいない。フリーランスという言葉が定着していない当時、その風当たりは一層に厳しかっただろう。

 しかし、切迫した描写は皆無だ。焦りもなくはないだろう。しかし、彼も気づいていないのかもしれないが、彼は自分の眼を大切にして生きている。言い換えれば、彼は他人を意識して自らの行動を決めていない。素のままで生きる。簡潔でありながらも、これほど難しいことはない気もする。描かれる日々からは、素直に生きるみずみずしさを感じてやまない。

 友人のコモロンは彼のことを“0”と表現する。何者でもない世之介。未完であり、ニュートラル。時系列で捉えることもでき、空気のように触れていたい、彼の人柄をも表す言葉だ。

 吉田修一は日常を言葉で浮かび上がらせる。誰もが持つ自分自身の日常。言語化するとすれば、それは生命の力強さであり、儚さではないか。著者はそれを上京した父のバッグで表現する。新品の旅行バッグ。一度も使わず、経年劣化でぼろぼろになった皮。救急車で運ばれた世之介を心配し、彼が生きる現在をも心配する。柔らかさと厳しさを内包した優しさ。言語化できない間を通じてその感情を描く。その余韻を楽しんだ。

 江戸川の土手。空と水と緑。世之介が導かれた、新たな舞台。それは彼を包み、現実社会との間に横たわる家のような役割を果たす。永遠に続くことを願った時。しかし、死、拒絶、別れがあり、幸福の象徴である土手も姿を変える。ここにも、生死の余韻が漂う。

 世之介にしか切り取ることのできない世界がある。カメラを好きになり、その世界で生きていくことを決めたのは実に彼らしい。善良の体現者。心を石鹸で洗ったような、そんな気持ちにさせてくれる作品だ。


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