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書評 #4|清明 隠蔽捜査8

「他人から好かれるための一番の近道は、好かれようとしないことだ」

 アルフレッド・アドラーの『嫌われる勇気』は未読だ。しかし、雑誌の紹介では上記のような内容が書かれていた。生きた言葉として意識し始めたのは最近だが、この言葉の周辺で思い出される記憶も多い。

 学生時代や社会人になったばかりの僕は周囲の人間から好かれることを最優先に考えていた。そして、その思いと本心の間で苦しみ、余分な荷を自分自身に背負わせていた。現在でもその傾向は変わらないように思う。人間の本質はそう簡単に変わることはない。しかし、前述の言葉を意識するようになってから、身体にまとった重りを下ろすことができたような感覚を覚えた。

 今野敏の『清明 隠蔽捜査8』はいかなる形態であれ、プロフェッショナルなビジネスに従事している人間であれば共感を覚える作品だろう。『隠蔽捜査』シリーズは警察庁のキャリア官僚である竜崎伸也が信念とする原理原則の物語だ。この後の文中では作品の核心や結末が示唆されているため、気になる読者は読むのを避けてもらいたい。

 本作でも序盤から竜崎の価値観に沿った、合理的な判断や思考によって展開は勢いを増していく。それは散らかった部屋の片付けでもするかのように、文字を追う読者に爽快感を与える。竜崎が理不尽な要求に屈しないこともそうだが、原理原則に沿った正しい判断がなされる速さもリズミカルで、音楽を聴いているかのようにページをめくってしまう。読み進めるのが名残惜しいと感じるほどだ。

 この物語に深みを与えているのは、主人公の原理原則に縛られず、人間としての成長や葛藤を描いている点だ。正しいことを主張することは時として軋轢を生む。竜崎は過去のシリーズでも幾度となく、人間関係のトラブルに直面した。

 野球に置き換えるなら、過去の竜崎は直球しか投げることのできない人間だった。しかし、多くの人間に相対し、各々の価値観に触れ、無意識に相手の考えを意識した発言や行動を取るようになる。本作でも緩急を織り交ぜることにより、事件解決の糸口を見出す術は人の上に立つ人間としての貫禄さえ感じさせる。国際政治も絡めた舞台の大きさもこの作品の魅力だ。複雑で多様な思惑が交差する舞台だからこそ、その原理原則は光り輝く。

 僕も歳を重ねるにつれて、ビジネスの場で判断し、指示を出すことが求められる場面が増えてきた。新入社員だった頃に先輩から「お前はどうしたい」と訊かれ、言葉に窮してしまった苦い思い出がある。その当時の僕は上司から言われたことだけをこなすことが仕事だと捉えていた。学生時代に本作に出会えていたとしたら、異なる未来が開けていたのだろうか。

 そんな思いが脳裏をかすめるが、本との出会いには必然性があると信じてやまない。現在の自分に必要だからこそ、手に取った作品なのだろう。僕は一人、その思いを頭の中で巡らせる。


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