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鑑賞では「離れる」ということが、ひとつ大事なのだと思う。#1  オンライン散歩鑑賞について

鑑賞プログラムを作っている。今年は1ヶ月に一つ新作ができればとノルマを課している。去年からのプログラムアーカイブはここに。
◆鑑賞プログラムアーカイブ

昨年からプログラム内容はアーカイブしていたが、今年はそこに参加者の発話テキストも起こしている。ひと昔前に比べれば音声認識の精度も上がったし、自動書き起こしツールもあるし多少は捗るけど、発話のテキスト化はやっぱりまだまだ骨が折れる。時間もかかるし、人のナマの言葉に向き合うには、体力が割合に必要になる。

ただ、そうやってとりあげた言葉は、自分にとって宝石の様なものだ。どれも美しいと思うし、だから残しておきたいと思う。ただ、この輝きを他の人に伝えるのが大変難しい。どうしたもんかと考える中で、そんな発話テキストに関する事をプログラムの紹介がてら書いてみることにする。

今回の題材は、「オンライン散歩鑑賞」

鑑賞では「離れる」ということが、ひとつ大事なのだと思う。 オンライン散歩鑑賞について


鑑賞では、離れるということが、ひとつ大事なのだと思う。

美術館でソファーに座る。
館内のカフェでコーヒーを飲む。
館の外に出て公園を歩く。
図書コーナーへ行く。

位置の確認なのか、執着を捨てるためなのか、意識的に見ている作品から離れることがある。(「離れたくなる」というのが、正直な感覚なのかもしれない。)鑑賞とは距離の問題なのかもしれないとも思う。自分と他のモノの間にどんな距離が存在するのか、確かめ測るための機会なのかもしれない。

自分のプログラムの中にも、意識的に作品から離れるワークを入れ込むことが多い。
カードを使ってランダムなテキストや図像に出会わせる鑑賞や、韻を踏んだり手話を基点にしたり、言葉をいつもと違う方法で使う鑑賞など、これまでも、作品や解釈との距離をあえて感じさせるため、そのあわいに色々と異物になるものを据えてきた。

そこに今回は「散歩」を差し挟む。絵を見て、散歩して、また絵を見る。

もっと直接的、物理的に鑑賞作品から離れてしまおうという実験だ。散歩に出かけることで、鑑賞と直接関係のない出来事が、たくさん起こるだろう。それは一見、おかしな鑑賞体験であるかもしれないが、私たちの生きる日常とは、常にそうやってあらゆる出来事が無作為に起こるものだ。

このプログラムは、これまでに2回実施をした。まずは方法の解説をしながら、最初の実施を軽く振り返ろう。

鑑賞作品について

ちなみに今回鑑賞作品に選んだのは、フリードリヒの「雲海の上の旅人」。

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これを選択したのは、まずは知名度。ある程度の分厚さの美術史の本にはかなりの確率ででてくるけれど、そこまで知っている人はたくさんいないかな?というところ。

あとは、ぱっと見で、散歩っぽいイメージがあるところにも惹かれた。それでいて、参加者の散歩とは、かなり異なった景色の絵であると思うので、その誤差の幅がちょうどいいかなと思った。

玄関をぱっと開けて、こんな大自然に分け入る散歩が始まる人はそうはいないだろう。ただ、空や緑や風、この絵とどこか繋がるものに出会う可能性もまた多くの人にあるだろう。そんなバランス、塩梅がちょうど良いということで選んだ。

オンライン散歩鑑賞の手順 

(以下ざっくり説明なので、細かい手順はリンクから

短い鑑賞を行い、お互い(今回は参加者3人)に感想を共有する。そして、他人の意見を聞いた上で「問い」を立てる。「問い」とは「鑑賞で興味を持ったこと、さらに知りたいこと」で、疑問形になった文章のこと。

「絵の中の人は何を考えているのだろう?」とか、絵についてのことでもいいし、「自分はなぜこの絵に惹かれるのか?」という作品を介した自分のことや「人はなぜ生きるのか?」のような、作品に直接関係のなさそうなことでも「今回の鑑賞の中で気になったこと」であればなんでも構わない。

こうやって「問い」を立てるのは、とりあえずの目的を決めるためだ。「自分は作品のここに注目しているんだ」ということがあったほうが、情報や思考の取捨選択ができて、後のことがスムーズに進んでゆく。*うろうろ迷いながら鑑賞するのが良かったりする場合もある。

「とりあえずの」というのが大事。「問い」はたくさんでも一つでも、途中で変わってしまっても良い。とりあえず次に思考や想像をどの辺に進めるのか、あたりがつけられれば問題ない。

その「問い」を心に置いたまま、30分間の散歩に出る。(事前に30分の散歩コースを考えておいてもらった。)15分づつで折り返すとか、公園でぼーっとするとか、コンビニで買い食いするとか、過ごし方は自由。戻ってきたら、今回の鑑賞全体でどんなことを考えたのか、また全員で共有する。全員が話したら、絵や作家の簡単な解説をして、終了。

参加者のログ

実際の参加者の発話には、こんなのがあった。これらは散歩に出かけた後の発話。

プールが付いてる公園に行ったんですけど、そこのなんかプールに鴨がいた(笑)。っていうことと、後は、何かアリの巣がめちゃめちゃあったので、それを塞いでみたりとかしていました。で、何か思ったのが、たくさんアリの巣があったから、なんか「どんだけアリの巣作ってんだよ」とか思ったりしました。後は白くなったダンゴムシ?干からびたのかな?砂の中に混じってたから、そこはちょっとなんかびっくりしました。(小学生)

プール・鴨・アリの巣・白いダンゴムシ・・「雲海の上の旅人」と全く関係のないものが並ぶ。僕は鑑賞は表現だと思っているので、こんな風に私的で詩的な情景が、いきなり鑑賞の感想に飛び込んでくるのは最高だと思う。聞いててクラクラして楽しい。

でも、きっとそれらは尻切れトンボのむちゃくちゃではない。この人も、この発話の後で、もう少し話を聞いてみると、

なんか生えてる木は、何か細めの木だから、なんか白樺かなって。後は何かモミの木。広葉樹か針葉樹で考えると、なんか広葉樹かなと思ったんですけど、だけどなんか木が多分細いんですよ。真ん中の枝みたいなところが・・細いから、まあ白樺か、さっき2番さんが言っててくれたように、松の木かなとか、そのどっちかだろうなっていうのはなんか思いました。雲のことに関しては、太陽がなんか下に沈んでいってて、そういうここからは見えないけど、結構なんかマチュピチュみたいな、高い所の・・それでなんか下に沈んじゃって、下にあるから、それがなんか上から見れるのかなって思いました。(小学生)

と、作品の考察が進んでいる。。発話の全容は前述のリンク先を見てほしいが、明らかに散歩の前より思考が深まっている。

さて、次の方の発話

なんか太陽が、今日ちょっと曇ってて、太陽ちょっと埋もれてたんですけど、だから直視した感じだと白かったので、この絵の中では黄色い?黄色くなっているのがもし太陽のせいだったんだとしたら、なんだろう・・絵全体からすると、朝な気はしたんですけど、黄色いのが太陽だとしたら、なんか夕方とか・・朝は結構、太陽光が白いと思うので、夕方の太陽で黄色いのかなって思いました。以上です。(高校生)

散歩の中で作品と同じものをみつけた場合は、見比べてみると、こんな風にいろいろと発見があって楽しい。ここでは雲に埋もれた太陽の光を見たことで絵の中の光の色に気づき、時間帯についての想像が広がっている様だ。もしかしたら、そもそも太陽の光なのかという前提も揺らいでいるのかもしれない。作品は現実の認識を揺らし、現実もまた作品を揺らす。

次は一般の方。(最初の小学生の親)

自分の疑問に思ってるところを、散歩しながらなんだろう・・解決じゃないけれど、考えてくださいって言われた時に、できるのかなっていうのが正直あったんですよね。で、公園に行ってもどうなんだろうと思ってたのが、なんかアリの巣を見てる時に、ふとなんかそう言えば、こう言うことかなっていうのを思ったりして、なんだろう・・環境を変えて全然関係ないことをするっていうのが、なんかこういう効果もあるんだなっていうのは、自分で気付いたなっていうのがあります。(一般)

…というように、この方は「離れる」ということに自覚的で肯定的だ。「アリの巣」を見ているときにふと考えが至ったところも、今回のポイントが伝わっている様で、企画者として喜ばしい。2回目はここの鑑賞と現実の跳躍的な関わり方を、最初にもうちょっとイメージしやすく説明してみたい。

散歩による詩のような出来事との出会い。アリの巣、ダンゴムシ、プール・・鑑賞作品の中に、場違いな情景が入り込んでくる。でもそれが見るということだ。作品は自分や自分がいる世界と断絶しているかもしれないが、それを見るということは、鑑賞者のこれまでとこれからの全てを引きずり、背負うことだ。

そして、そうやって出てきた言葉には、魅力がある。整えられてはいないが、かさぶたや傷のようなものがついた自分の言葉になる。そんな言葉に出会うために、もう少しこの散歩を続けてみたい。​



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