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「会いたくない」を認めても何も怖いことは起こらなかった
こんにちは。のぞみ@心と身体の漢方おねえさんです。
私にとって、書くことは癒しだし、私の追求したい「好き」の一つが書くことなんじゃないかな?と思い、できれば毎日、noteを書いてリリースしていこうと思っている。
癒しのために書いたnoteをマガジンにまとめてみたので、
よかったら、こちらもどうぞ。
呪いの半分は、大好きなおばあちゃんからの呪いだった。
これは、普段のジャーナリング、誰が見るわけでもない、裏紙の殴り書きにすら書けなかったこと。
そして、私が受けていた心理カウンセラーさんにも伝えられなかったこと。
私の「学校の先生の娘として、いい子でいないとだめだ」の呪いの半分は
母方の祖母(以下おばあちゃん)にかけられていたな、ということに薄々気づいていながら、言葉にできなかった。
言葉に、文字にしてしまったら、それは、私の脳内の妄想から、紙に書かれたという現実になってしまうから。
私は、おばあちゃん子だ。
ほとんど、おばあちゃんに育てられたといっても過言ではない。
母と手を繋いだ記憶より、おばあちゃんと手を繋いだ記憶の方が多いし、
母に抱きしめられた記憶は、ほとんどない。
勿論、アルバムなどに母に抱きしめられている写真はあるのだが、私の”体感を伴う記憶”では、母よりおばあちゃんに抱っこされたり、おんぶされたり、手を繋いだり。
だから、母よりもおばあちゃんの方が好きだ。
だからこそ、認められなかったのだ。
あの呪いは、おばあちゃんに半分かけられたって。
おばあちゃんの口癖は「恥ずかしい」だった。
おばあちゃん自身に対して
「こんなに太って恥ずかしい」「こんなに白髪ばっかりで恥ずかしい」「田舎者のばあさんで恥ずかしい。笑われてしまうから恥ずかしい」などと自分自身の恥ずかしい部分をよく言っていた。
私や弟たち、母は「そんなことないよ」「白髪は染めたらいいよ」「誰も笑ってないよ」と声をかけていたが、スルーされることがほとんどだ。
そして、私や弟たちに「(当時の流行りの服など)みっともない格好をしていたら恥ずかしい」「行儀悪いのは恥ずかしい」「人のモノを取るような泥棒になるのは恥ずかしい」「(TVのお笑いなどをみながら)あんなに笑われて恥ずかしいからあんな風になったら恥ずかしい」「あなたたちが悪いことすれば、お母さんたちは恥ずかしい思いをするんだよ」
「いい子じゃないと恥ずかしいになるらしい」
そういう価値観になっていた。
そして、私は持病を発症した。
盲腸破裂による「癒着性イレウス」になった。
持病は、私が34歳の時に自力で体質改善するまで嘔吐と腹痛と生理痛のトリプルコンボで定期的に襲い掛かってきた。そのため、私は4年に1度は救急車で搬送され、入院コースを繰り返し、救急車に乗った数は片手じゃ足りないほどだ。
そんな持病を発症した小学生の頃、
母から、おばあちゃんの「恥ずかしい人間」を強化される呪いの言葉をかけられた。
「おばあちゃんは、あなたの手術に付き添ったから、ひいおばあちゃんのお葬式に出られなかったんだよ。もっと、おばあちゃんの言うことを聞きなさい」
この時、私は子供ながらに「お葬式に出られないなんて、とんでもない悪いことをしてしまった」と思ったのだ。
今でもこの言葉を思い出すと涙が出るので、古傷が痛んでいるのだろう。
この言葉で私は「自分=悪い子」と思うようになった。
そして「悪い子の自分は、おばあちゃんのいう恥ずかしい人間だ」
「いい子にならなきゃ」思うようになったし、
時には「私なんて、どうせ悪い子だし」と諦めるようになったりもした。
だから、私は「恥ずかしい」と感じることがただの苦手意識を超えて、まるで自分が消えてしまいたいような感覚に陥るのだ。
そして、自分が丸ごと否定されたような気持ちになる。
そのため「恥ずかしいと感じるモノゴト」から自分を遠ざけるようになった。
失敗したら「恥ずかしい」
笑われることが「恥ずかしい」
人と違うことをしたら「恥ずかしい」
だから、からかわれると「恥ずかしい思いをさせられた!」と時に怒りに変わる。
それはきっと「ただでさえ私は恥ずかしい人間なのに。いい子になろうとしているのを邪魔している」という怒りなのだと思う。
この「恥ずかしい」は、母ではなくおばあちゃんからの呪いだったのだ。
それを認めることができたのは、
母のことでカウンセリングを受けたおかげだと思う。
母に無理やりかけさせられていたメガネを外したからこそ、
おばあちゃんの「恥ずかしい」という呪いも見えるようになったのだ。
ただ、見えるようになったからといって、呪いが解けるわけではない。
「認める」この作業が必要なのだ。
見えていても、心から認めなければ、
それはただ見えるようになっただけで、なにも変わらない。
だから、この、今、noteを書くことが「認める」ことなのだ。
このnoteを書こうと思ったきっかけがある。
今回の年末年始、母に会いたくなくて、実家に帰らなかった。
丁度、年末にインフルエンザにかかって、
仕事も遅延していたため、それを理由に帰省しないことにした。
タイミング良く?悪く?、12/31から今度はコロナ感染で咳がひどすぎて、お正月のあいさつの電話をLINEで済ませた。
ただ、母からは「体調が改善したら、おばあちゃんに電話してね」とメッセージが。
咳はでるが、まだなんとなく連絡したくないなあと思い、先延ばしにしていたら、実家から荷物が届いた。荷物のお礼をLINEしたら、「おばあちゃんに電話した?早めに連絡してあげてね」と来ていた。
ここで私は「あ、おばあちゃんにも会いたくなかったんだな」と気づいた。
あんなにも大好きだったおばあちゃんに対して、
「会いたくない」と思うことに罪悪感があったのだ。
だけど…
「恥ずかしい」の価値観を植え付けられ、
母の「教師の娘に相応しい、よい子でいること」という呪いを強化され、
今まで苦しかったもう一人の私が
「今は会いたくない」と思ったのだ。
今回はもう一人の私の気持ちを尊重しようと思う。
もちろん、おばあちゃんが大好きなもう一人のわたしも別にいる。
おばあちゃんに会いたくない私と、
おばあちゃんが大好きなわたし、両方居ていいのだ。
私の中には、いろんな私がいるのだから。
自分の気持ちを認めるというのは、案外難しい。
都合の悪い気持ちがある場合、観てみないフリをするから。
今回の場合、「私は悪い子」「私は恥ずかしい人間だ」という呪いがあったから、認めたら、余計に「悪くて恥ずかしい人だ」と強化してしまうのでは?という恐怖があったのだ、無意識下でね。
でも、認めなければ「悪くて恥ずかしい人」にもならないから、
認めることから逃げがちなんだよね。
逃げたら追いかけてくる。
だから、今日は認めるためにnoteを書いた。
私はまた少し癒されるだろう。
こうやって、認めていくために書いて、
書いたことを認めて、そうやって進んでいくしかない。
この癒すための時間を与られたのかもしれないな、と最近は思う。
フリーランスになったのは、
私がわたしに「自分をもっと癒して」と与えてくれた時間なのだ。
だから、明日も自分を癒すためにnoteを書こう。
何かしらのきっかけにこのnoteがなれたら嬉しいです。
最後までお読み頂きありがとうございました!
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