春の嵐電、龍安寺で、何を追う
病院に3ヶ月に1回程度、通っている。
その日はいつもと違う先生で、初めての先生だった。
自分の経験を交えながら、「この方法がダメならこういう方法もあるからね、大丈夫よ」と言ってくれて、とてもホッとした。
それにしても、プロに言われる「大丈夫」という言葉の効果は、絶大だ。安心する。
自分で自分に、「大丈夫」ってよく聞かせているけれど、その大丈夫って心の隅々まで届かないときもあるし、なんだかちょっと頼りない。
そこから心細さや不安がどんどん大きくなるのだけど、ひとりだからどうしようもない。
例えば背中に貼る湿布薬って、人に貼ってもらうと綺麗に貼れるけど、自分で貼るとどうしても斜めになったり、ぐちゃぐちゃになったりするでしょう?
そんな感じで、やっぱり他の人の助けを借りないと、どうもならないことってあるんだよなあ、と思う。
☆
この日は雲ひとつなくて、羨ましいぐらい空が青くて、とても暑くて、半袖で歩いている人もたくさんいた。このまんま帰るのはもったいない。せっかくだし、どこかに行きたいなあと思った。
そして、行った。
行き先は、龍安寺だ。
なぜ龍安寺だったのかというと、この本の影響だ。
俳優の松重豊さんと、庭園デザイナーで禅僧の枡野俊明先生による、「十牛図」をテーマにした対談形式の本。
「十牛図」を紐解くとともに、松重さんの半生や、枡野先生の考えに深く触れることができる。
他に読んでいる本があったので、終わってからこちらの本を読もうと思っていたのだけど、最初をちらっと読み出すと、ページを読む手が止まらないほど面白くて、前日のうちに3分の1ぐらい、読み終えていた。
この本に幾度となく出てくるのが「龍安寺」。
わたしが行ったら何を感じるのだろう。
何か生きる上でヒントが見つかるかもしれない。
平日の真昼間、日本語よりも異国の言葉が飛び交う嵐電の中で、どんな庭園に出逢えるのだろうとわくわくしながら、陽気な春が起こした妙な思いつきで、龍安寺に向かうこととなった。
☆
「わからん」
情けないが、これが石庭を見て最初に抱いた感想だった。
もともとそういう芸術的なものを深く理解したり、解釈することが苦手なのだけど、やっぱりわからなかった。
白砂と15の石だけで、島や水の流れを表している庭園は、とても整っている。本当に美しい。
でも、わからないのだ。
なぜ、ここに庭園をつくろうと思ったのだろうとか、15の石の意味ってなんだろうとか、何を訴えかけているのだろうとか、それを理解しようとすればするほど、苦しくなる。
パンフレットにはこう書かれていた。
わたしはきっと、ここに答えを探しにきていた。
いや、ここにくれば何かしらの答えが「もらえる」と思っていたのだ。
常々目標もなく、夢もなく、自分がどう生きたらいいのかという方向性が全く定まらないことに煮え切らない思いを感じていたが、きっとここにくれば稲妻が走ったように、答えがあらわれる。そして良いことが起こる、と多分期待していたのだ。
それが逆に庭園のほうから「どう思う?」と、答えを問いかけられている。
その庭園からの問いに、わたしは何ひとつ答えることができない。
座って庭園を眺めている間にも、両隣は入れ替わり立ち替わり、変わっていく。けれど、立ち上がることができない。
相変わらず、時間の流れについていけない自分を見ているようで、一体わたしは何をやっているんだろうか、とますます落ち込んだ。
「ちょっと休憩」
そんな声がしたので、後ろを振りかえると、お父さんと眼鏡をかけた娘さんが、水筒からゆっくりお茶を飲んでいた。
周りを見渡すと、外国の方も日本の方も、皆思い思いに羽を伸ばして、のんびりしている。
世界中の人が、ここにのんびりしにきているように見えて、「あ、なんかいいなあ、こういうの」って思った。
そうか、何かをわかろうとしなくても、すぐに色々決まらなくても、今は思う存分、自分の思ったように休憩してもいいんだよなあ、と思った。
今日は休日、何かに縛られているわけでもないし、ついていけるかをどうか気にする必要もない。
悩みは消えないし、答えも出ないけれど、そんなことはとりあえず置いといて、思い切ってぼーっとしてみよう。
そう思うと、なんだか胸の中につっかえていたものが、ちょっと軽くなった。
あっちこっちに移動しながら、ぼーっとした。
色んな角度から見る庭園は、全然違う顔を見せるのでおもしろい。
右側には、大学生二人組が、座ってくつろぎながら、知らない外国人に積極的に話しかけて、コミュニケーションをとっていた。
大学生二人組は、関東から来たらしい。
言っていることは、Where are you from? ぐらいしかわからなかったが、青々とした緑を眺めながら、若いって良いなあと思った。
左側に座っていたお爺さんは、灰色のキャップ帽を被ってニコニコしている。きっとぼーっとするプロなんだろうなあ、と思った。
☆
枯山水として有名な龍安寺の庭園は、謎が多い庭園で、誰が作ったかも未だにわからない。
庭園に関しては、わからないことがほとんどだったが、ひとつわかったことがあった。
それは、誰かがこの庭園を、必ず手入れしている人がいるということ。
誰かが手入れし続けていて、緊張感を持って白砂で水の流れを作り、枯山水の世界観をずっと守り続けている人がいるということだ。
それはこの空間が必要とされているからだと思う。これからも、必要とされ続ける、からだと思う。
焦らなくても、答えをすぐに出さなくても、大丈夫なんだろうなあと思えたとき、さあ、明日からまた仕事だから家に帰ろう、と思った。
また今度来た時、庭園の見方が変わっているかもしれない。
☆
帰りの嵐電から地元の駅に降りるまで、『あなたの牛を追いなさい』の本の続きを読み進める。電車に乗っている間に読み終えられたらいいな、と思う。
…結局読み終わらなかったので、地元の駅のベンチに座って、読み終えることにする。本に夢中になっていて気づかなかったのだけど、すでに夕方を迎えていた。日は落ちていないけれど、真昼間ほどの元気もない、ちょっとセンチメンタルな時間になっていた。
無事に読み終わって、背表紙を左手に、息をついた。
「あ」
と思わず声が出たのは、そういえば今月の家賃をまだ支払っていなかったことを思い出したからだ。
これが現実。銀行が閉まってしまうぞ、と、そのあとあわてて走って銀行に行ったのは、いうまでもない。