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家族の写真を残す、ということについて

Threadsなんかを眺めていると。
ファミリーフォトやキッズフォトをメインにされている個人のフォトグラファーさんって、「どうして家族の/こどもの撮影をしたいのか」、という理由がハッキリしていて。「ご家族を撮影する」ということに情熱を持っている方が多いように感じられて。「撮影楽しんでもらえたら、写真喜んでもらえたら嬉しいな」という、ふわっとした心持ちでいる身としては。なんだかキラキラして見えて、まぶしく思えて憧れる。

この仕事は自分に向いていると思うし、元々人を撮るのが趣味だったからとても楽しい。でも何か理想を掲げてこの仕事を選んだというわけではなくて、流れに任せていたらそうなっていたという感が強いので。(趣味で撮っていたら依頼をもらうようになって、そのうち同時進行していたセラピストやハンドメイド制作よりも撮影の仕事の割合が増え、これ1本になった)

そういう「理想」のようなもの、「お客様のために〜したい」みたいな強い気持ちって、すぐには思い浮かばなかったのだけれど。自分にも何か家族写真を撮る理由ってあったかなと考えてみた時に思い浮かんだのは「ああ、自分が写真の価値も力も知ってるからだ」ということだった。

カメラ好きの祖父が初孫かわいさに何冊も作ってくれていた、幼い日々のアルバムを眺めては。記憶にない程に小さな頃の思い出話を、両親や祖父にねだっていた幼稚園や小学生の頃の自分の姿が思い浮かぶ。逆に写真を見ながら覚えていることを話せば、皆が「よく覚えとるねぇ」と驚き笑ってくれた、そんな温かな光景も脳裏を過ぎる。

こどもの頃は、自分の知らない自分自身の写真を見るのが面白いと感じていたけれど…大人になってからは、一緒に写っている家族の姿に惹かれるようになった。輝くような笑みで自分を抱き上げている祖父や、幼児の自分に寄り添う母。

特に母に対しては、長女である自分に「お姉ちゃんなんだから」と我慢を強いることが多いと感じており、なにかと反発心があったから。実家にいる時は頻繁にぶつかり合っていたし、大学4年の時に実家を出てからはもう一緒に暮らすこともなかったけれど…

幼い自分と写る母の姿を、当時の母に近い年齢になって眺めた時に。なんというか、今さらながらに「親の愛」みたいなものが感じられて。「弟ばっかり、自分なんて」みたいに思っていたし、実際そういうところは多分にあったんだけど。それはそれとして、こんな風に自分に愛情をかけてくれてもいたんだな…と気づかされたり、ということもあった。

また家族ではないけれど、早逝した友達の写った写真や。幼い頃に飼っていた犬の写真。今はもう手の届かない場所にいる、愛するものの姿はどれだけあっても足りないくらいで。自分にとって写真とは、時間を超えられる愛の欠片のようなもの…なんだと思う。今や数年後だけ楽しめるというものではなくて、もっと遠くの未来にこそより一層に輝きを増しているだろう、己の人生の一部。

だから"今"という時点において、撮っている相手に対して感じるのは。最初に書いていたような「撮影楽しんでもらえたら、写真喜んでもらえたら嬉しいな」という、ふわっとした気持ちで。

でもいつか、もっとずっと未来のどこかで。撮影した方々から、写真が何らかの感情を伴って見返されること。それこそが、自分が心底願っていることじゃないかな…と思う。たぶん、写真が持つそういった可能性こそを自分は愛しているし、信じてもいるんだと思う。


出張撮影のユルリラム
http://yururelam.web.fc2.com/

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みき けいこ
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