逃げられたのは〇〇のおかげ?:「金ヶ崎の退き口」を地形・地質的観点で見るpart7【合戦場の地形&地質vol.3-7】
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・明智光秀など「戦国オールスター」が絶体絶命の大ピンチに陥った「金ヶ崎の退き口」。
信長軍は朝倉義景の居城である一乗谷城へ向かう道中の木ノ芽峠に差しかかったタイミングで、浅井長政の裏切りを知ります。
現代の地形図を見てビックリ!
何と木ノ芽峠と浅井軍の進軍ルートである北国街道(ほっこくかいどう)は非常に近く、直線距離で約1.5kmでした。
浅井軍の動きを察知するには十分な距離だったのではないでしょうか?
撤退開始!
このまま進軍すれば挟み撃ちですので、当然撤退することになります。
この時の撤退ルートはどうだったのでしょうか?
以下のサイトを参考にしました。
これを見てハッとしました。
このシリーズの初期で、琵琶湖北部から国境(くにざかい)を越えるために、西へのルートか北へのルートか検証しましたが「西へのルート」を進軍したようです。
もっと早く、このサイトを呼んでいれば良かった(;^_^A
退却は、来た道を戻って行きました。
まずは金ヶ崎城(上図赤丸)を豊臣秀吉、明智光秀らが守り、信長軍本体は赤点線矢印のルートで撤退。
青丸の佐柿国吉城を抜け、三方五湖の東岸を南下し、北近江に入ります。
しかし問題はここから!
これ以降は来た道は通れません。
そもそも進軍の時は浅井長政がまだ裏切りを表明しておらず、味方であったため、琵琶湖西岸を通ることができました。
しかし撤退時はそうはいきません。
「朽木越え」とは?
琵琶湖西岸は通れないため、その少し西を通る街道を抜けることにしたようです。
この街道は朽木谷(くつきだに)を通るため、その領主である朽木元網(くつきもとつな)を説得し、通してもらうことになりました。
朽木谷とはどんなところでしょう?
赤点線が「行き」のルートです。
退却時も途中までは同じルートですが、途中から南南西方向の街道を通ります。画像中央あたりに南南西方向にまっすぐ伸びる溝状の地形がありますが、見えるでしょうか?
上図の青点線のルートです。
この先の逆三角形状の小さな盆地が朽木谷です。
そして朽木谷の南からも、まっすぐな谷地形が伸びていますよね。
そして大きく見てみると、あらビックリ!
なんとこの溝状地形は、京都まで伸びているではありませんか!
こんな感じです。
そしてこの溝状地形は、現在は国道367号線が通っています。
朽木へ至る溝状地形、朽木から京都へ至る溝状地形とも、断層が通っていました。上図赤点線で囲った範囲内に、黒線が伸びているのが見えると思います。これが断層です。
断層は周囲の地質より脆く侵食されやすいため、谷地形となったのでしょう。また削れやすいので険しい尾根がなく、峠も比較的楽に越えられ、まっすぐ伸びているので歩きやすく、古くから人々の通り道になっていたのでしょうね。
朽木谷はどんな場所?
地形図を見てみましょう。
周囲を山に囲まれた平坦地が広がっています。
中央を流れる安曇川(あどがわ)に支流も合流しており、水が豊富そうです。安曇川の下流(画像北東部)は蛇行が激しく狭窄部もあるため、長い年月の間に何度か氾濫し、朽木谷内の平坦地が形成されたと思われます。
また盆地南東部には一段高い平坦地が広がっています。段丘でしょうか?
地質図です。
平坦地は薄い水色で、約」1万年前から現在にかけての河川堆積物。
盆地南東の斜面の薄い黄緑、黄色は約77万年~1万年前の段丘堆積物で、ベージュは約258万年前~77万年前の海の堆積物です。
それぞれ比較的軟らかいため、平坦地になったのでしょう。
山に囲まれた平坦地なので、人が住みやすく、また交通の要衝としても古くから栄えていたのでしょうね。
いかがでしたか?
織田信長絶体絶命のピンチであった金ヶ崎の退き口は、なんと断層のおかげと言っても過言ではないですよね。
お読みいただきありがとうございました。