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小さな神社さんに手を合わす
今日は初めて、いつも通る細い道沿いの小さな神社さんに手をあわせました。
きれいな小菊とお茶が供えられています。
何度もただ通りすぎていた私でしたが、今日は足が止まりました。
今日は外出ついでにカフェへ。なぜか、30分もすれば目が痛くてたまらない。
2Weekのコンタクトはまだ2日目なのに・・・カフェの自習を1時間で切り上げました(ま〜ちょうどいい長さです)。おまけに首が痛む。
というのも、昨日首を痛めてしまいました。
ちょっと違和感はあったのですが、朝の練習のときにピキッ!と。横向くのも痛い。一晩寝たら和らぐかと思いましたが変わらず。
首は痛む、眼は痛むので早めに家へ戻ることにしました。
首はちょっと不自由です。
神経を痛めると完治するまで長くかかるので、この痛みがいつまで続くかとちょっと懸念しますが、無理しないのが賢明です。
首が痛むことで身体全体が少しこわばっているのに気づきます。
痛いという感情は心地よいものではなく、心の状態も変わることに気づきます。
おまけに先日は転けてしまい、左手と右膝をケガ。
この現象はいったい何の表れ?と思い、チャクラの本を開いて小さなヒントを探してみました。
コケる、首を痛める、思わぬアクシデント。先日見た夢の記憶も心に引っかかる。直感的な予想ですが変化のタイミングかも、その変化をリラックスして楽しんで、とメッセージなのかもしれません。
帰り道の途中・・・・
道ゆく人をみると、いつも以上に感じるものがあります。
右足を歩きにくそうにしている叔父さん、
首が90度に折れているような身体で歩いている叔母さん、
左膝が外側に歪んで杖をつきながら、痛そうな表情で家へ向かうお婆さん。
そのような姿をみる度に思うのですが、何があってそうなったのか、何かがちがっていたら防げたかもしれません。
でもそれも人生、何かに一生懸命捧げた人生があったからこその今、その人の歴史。
ただ、良い悪いはなくとも痛みがある暮らしは様々な2次的な影響を与えるはず。
「こんにちは」と挨拶をしたら、「誰かわからなくて、挨拶もしないで、ごめんなさいね」と言われてちょっと切なくなりました。一歩一歩が大変で、その余裕はないと思います。気の利いたことを返せれば良かったと思いました。
健全な身体、健全な心、とは何でしょうか?
健康といっても、皆それぞれの健康観というものは違うでしょう。病気であってもいつもにこにこして明るい人もいれば、健康なのに不満ばかりの人もいます。
身体が健康だからといって、心も健康とは限りません。
私は本をよく読むようになり、読書は心の栄養だと感じています。
読んだことは必ず心の中に残っていて、ひょんなタイミングで出てきたり、見る視点や感じ方に変化をもたらします。新しい気づきがあることは、喜びであり、嬉しさがあります。
健康資産という言葉があるように、長生きが当たり前になっている今、健康な身体、健全な心は、これまで以上に大切。
1本の歯をとってもこれほどの資産はありません。自分にとっての資産は何かを改めて書き出してみようと思います。