「ママがいい!」を考えてみる。パパなりに。
私は現在進行形で子どもとの関係性に悩んでいる。
適応障害と診断されたときも、「悩みの種」のひとつとして挙げた程だ。
自分の子どもと、どうやって接してよいのか、わからないのだ。
特に上の子ども(4歳男の子)。
(もう1人、昨年産まれた1歳の女の子がいる)
産まれてから息子が3歳半になるまで、子育てをパートナーと保育園にほとんど任せていた。
朝、子どもの寝顔をみて「行ってきます」
夜、子どもの寝顔に「ただいま」を言う。
そんな日ばかりでもないが、仕事の忙しさに比例して、その割合は増えていった。
今から2年半程前までは、子どもを保育園や幼稚園へ預けることが「普通のこと」で、それが子どもにとって良いことだと思っていた。
でも、それは大人(親)の都合で、それで良いかどうかを決めるのは「あくまでも子ども」なのだ。
子どもには、親の都合に合わせて貰っていて、「親からお願いして登園してもらっている」のだ。
また、保育園や幼稚園は子育てを一部丸投げ、アウトソーシングする場所ではなく、あくまでも一緒に子育てをするパートナーのような場所である。
これは数年前にパートナーに言われて、ハッとさせられた。
それまで私は、園に預けることが正義!
上手く預けてナンボ!
だと思っていた!
子どもの気持ちなんて「登園すればオトモダチがいるから楽しいでしょ?」「お父さんは保育園楽しかった思い出でいっぱいだから、あなたも楽しいでしょ?」くらいにしか思ってなかったのだ。これは大いに反省した。
子どもの気持ちなど、置き去りにしていた。
ただ、同時に強く悩んだ。
「子どもと長い時間を過ごすことに強いストレスを感じる自分」も明らかに存在しているからだ。
先に書いたように、どう接してよいのかわからないのだ。
子どもを思うと、土日祝日が怖くなってきている自分がいた。
土日祝日は基本的に園に預けない。
雨でも降ったり、家族の誰かの体調が悪かったりすれば、一日中お家の中で、一緒に過ごさねばならない、、。
園が休みの日は、しっかり子どもと向き合いたい、遊びたい、もちろんそういう気持ちもある。
でも、日々の仕事の疲れを取りたい、癒されたい、私も遊びたい。その気持ちも無視はできない。
パートナーも毎日子どもと向き合って疲れている。
私だけ自分時間を確保するのは気が引ける。
「だったら土曜日も預けよう。」
「もっと仕事に注力したい。そのためには子どもとの時間が邪魔だ。」
そんな気持ちがいつしか沸いてきてしまっていた
。(土曜は事前にお願いすれば預けられる園)
そして、どんどん子どもとの時間が少なくなってきていき、ますます子どもとの付き合い方がわからなくなっていった。
しかし、仕事はどんどん忙しくなる。
ストレスも疲労もたまる一方だった。
いつしか、上の子への暴言や暴力が出てきてしまった。
そして、ある日
様々な不安が入り交じり、頂点に達し「私は何のために仕事頑張ってるんだろう?」と思った。
あれ?家族仲良く暮らしたかったから、仕事を頑張ってたんだよね、、?
でも、頑張りすぎて逆に家族の時間が減って、私も辛くなって、、
何してるんだろう?
何でこんなことになっているんだろう。
なぜ私は子どもとの時間がとれなくて、仕事に実を捧げているのだろう?
また、子どもとの時間を、保育園に預けることで自ら手放してはいないだろうか?とも思った
なにやってんだろう、、
なんだかいろんなことが至極、馬鹿馬鹿しくなった。
同時に他の不調(精神と肉体、両方)も重なり、動けなくなった。
適応障害と診断された。
休職して時間ができ、子どもとの時間も増えた、、、が、もともと子どもとの心地よい関係性、接し方がわからない私にとっては楽しくもありまた辛くもある時間が増えた。
今現在も悩み続けている。
これは物凄く時間のかかることなのかもしれない、もしかしたら、生涯をかけた“宝さがし”なのかもしれない。
だがひとつ言えることは、子どもとの心地よい関係性、心地よいあり方を保育や子育てというものから考えると、今の社会の矛盾が見えてくる、ということだ。
これまたパートナーからの紹介で、日本の保育現場からの警鐘が鳴り響いている本を手にした。
働くパパ、ママに「仕事などの自己確立か、または子育てか」を選択させること事態が危険であることがよくわかる。
ママがいい!
母子分離に拍車をかける保育政策のゆくえ
松居 和(まつい かず)
2022年 グッドブックス
私も、2児の父であり、保育現場の最前線いるものであり、当事者だと認識させられた。
保育は、なにも保育施設だけのものではなく、本来は第一義的には家庭のものなのだ。
でも“生きるのに忙しくなると、問題の本質が見えにくくなる”まさにそれだった。
本書では、保育を母親のもとから引き剥がし、母親を経済競争へと引きずり出す政策の危険性を指摘し、政策や社会の変化によって翻弄される教育機関の悲痛な叫びや実態が書かれ、主役(子ども)が蔑ろにされ市場原理が幅を利かせることにより、「人間性という価値観の伝承が壊れていく」と、人類スケールでの問題提起も行われている。
人類スケールって、、話が大きすぎないか?と思われるかもしれないが、今この瞬間、今日この1日の子どもと接する時間が、人類が人類を次なる時代へとつなぐ最前線であることは間違いないのだ。
それが、いま大変なことになっている。
私も当事者なのだ。
「子育てと市場原理は相反する動機によって成り立っている。」 p44
「親が育ち、社会に絆が生まれること、それが子育てではなかったのか。“子はかすがい”ではなくて“子育てが人類のかすがい”であって、生きる動機だった。」p59
「0歳から預ければママがいい!という言葉さえ存在しなくなる。大切なもの、人間が生きるきっかけのようなものが、一つ一つ消えてゆく。」p91
私としてはかなり耳が痛い。
いわゆる子育てというもの(子どもとの時間)をアウトソーシングしっぱなしだった。
だか、第一章(70ページ程)を読んだだけで50枚ほどの付箋紙を使った。
それ程までに私はこの本から「失ってしまってはいけない大切な何か」を感じたのだと思う。
ただ、実際問題として、この生きるのに忙しすぎる現代社会(私の主観だが)において、親が子育てをアウトソーシングしすぎることなく、子どもと向き合う環境を整えることは並大抵ではないと思う。
私は今現在、休職中だから時間がとれる。
だが、復職すれば“生きるためにお金を稼ぐのに忙しい状況”となるのは目に見えている。
単純に仕事に時間を奪われるだけでなく、休息や心身のメンテナンスにも時間を使いたくなる。
もちろんワークライフバランスを整え、見事に両立させている人もいるだろう。
でも、世間に目を向ければ私よりもっと困難な状況はいくらでもある。
預けたくないけど、預けなくては何も出来ない。
という場合や、預けてしまえばキャリアが守られる、休職すれば復職したときに元の業務に戻れる保障がないなど、仕事との両立を考えただけでいくつか問題が上がってくる。
問題は単純ではないのだ。
だが、子どもと、子どもを取り巻く環境と、本来それを第一義的に積極的に築き上げるべき存在である親の状態が、それぞれに危機的であることは間違いなさそうだ。
保育界からの警鐘をあらゆる分野でキャッチし、複合的な取り組みが必要と感じた。
保育をアウトソーシングし過ぎるあまりに、弊害が発生している。明らかに質が落ちている、親の能力も変わってきているという保育現場からの声を無視できない。
さてここで少しタイトルの「パパ」としてを考えてみたい。
ママがいい!の副題は「母子分離に拍車をかける保育政策のゆくえ」だ。
ただ、母子分離だけでなく「父子分離」も存在していると感じている。
子どもとの接し方がよくわからない私がそうではないかと思う。
社会通念的にも父親は働きに出ていき、子育ては母親が主に行うものだという考えは未だ根強い。
かつて、私の中に強くその意識があったときは、自ら積極的に子どもとのコミュニケーションを減らしたことがあった。
仕事でのパフォーマンスを求められ、そうせざる得なかったのだ。
要はバランスなのだ、と言ってしまえばそれだけのことなのかもしれないが「親がいい!」「家族がいい!」の中に「ママがいい!」があって「パパがいい!」もあるはずだ。
また、「ママもいい!」も「パパもいい!」も「祖父も祖母もいい!」もあるはずだ。
そして特別な「ママがいい!」もあるのだと思う。
また少し解釈を広げて「近所の家族並みの付き合いをしてる人も、いい!」のかも知れない。
「家族を拡大解釈」「拡大家族」し過ぎることは、危ない面もあるけれど、複雑化してしまった家族や家庭だけで子育てにあたるのではなく、他者への協力を求めることも必要だと思う。
現代の「親」や「ママ、パパ」は追い込まれてきている。
この“追い込まれてきている、煮詰まってきている”状態を当事者のみで解決するのは難しいと考える。
誰かが誰かに子育てを押しつけ合うのではなく、共同体での子育てを行うべき、取り戻すべきだと感じた。
ママにしか出来ないこと、得意なこともある。
でも、パパにしか出来ないこと、得意なこともあるはずだ。
そして、ママとパパ以外のものにしか出来ないこと、得意なこともあるはずだ。
客観的に親子の様子を見てくれる人は、とてもありがたいときがある。
母子分離、父子分離、近所との分断、社会との齟齬、、。
今一度、あらゆる連携・繋がりを再考する時期だと感じた。
そしてもちろん、私自信の子どもとの向き合い方を作り直さなくてはならない。
「保育現場だけでなく、家庭でも、他の福祉施設でも、人間性を逸脱しているように思える出来事が増えている。『親が、我が子を育てる』、または、多くの人間が、自分の子に限らず、幼児と接する機会を繰り返しもつという土台が崩れていくと、社会は親身になることを忘れはじめる。」p148
「子育ては本質的には親が自分を見つめる作業でもある。子どもとの関係の中で、自分について、人生について、自分がいまいる位置について、深く考えるチャンスを与えられることなのだ。」p182
また「家族」とか「共同体」というものを、もう少し考えたくなった。
それはまた別の機会に、、。
「子育てに正解はない。こう育てればこう育つなんてことがあるなら、人類はとっくにそれを発見している。その過程で、親心がどう社会に満ちるかが大切なのだ。子育てという大きな伝承の流れは始まりのところで「親の質」を問うていない。宇宙は我々に、自信をもって0歳児を与える。だとすれば、何が伝承されてきたのか。育てる側の育ち方、そこが伝承の中身なのだ。」p220
子育てについて考え直すことは、未来のために出来ることのひとつでもあるだろう。
おわり