「おいしい」の愉しみかた
「ていねいな暮らし」という言葉の代表格が「ていねいに作られたごはん」だと思う。それは、ていねいな食生活をおくる人から放たれるオーラや出で立ちが物語っているように思う。
職業柄、ていねいにものづくりをしている人や、隅々まで素敵が行き届いたお店を取材することも多々ある。その度に「いいなぁ」「素敵だなぁ」と思うのだけれど、素敵に包まれた取材を終えた夜に、ランチパックのたまごサンドを食べながら原稿を書くのが私という人間だ。
こういうことをするたびに、自分はていねいができないガサツな人間なのだと幻滅する。
が、しかし。そんな私の卑屈気味な食生活に、光を与えてくれる本に出会った。料理人であり飲食店プロデューサー稲田俊輔さんの「おいしいものでできている」。
この本の素晴らしさは、食べることの面白がり方が一周回って革命的なところにある。
たとえば一番最初に紹介されるのは、卵料理が好きだという話なのだが、稲田さんが思う世界最高の卵料理は「月見うどんの卵黄を破ってうどんをすする最初の一口」らしい。どえらい偏愛だ。でもわかる。わかりすぎる。
というかずるい。これ私が言いたかった。卵料理の最高峰は月見うどんの卵黄を破ってすする最初の一口って、ドヤ顔して言いたかった。ていねいに気を取られて、本心を描写できなかった自分が悔しい。
という悔しさにすら喜びを噛み締める圧倒的な表現力、偏愛力に惚れてしまった。文字を追っているだけで、月見うどんの卵黄を破った瞬間が、湯気にのってのぼってくる気がしてくるのだ。ごはんってすごい。食べることへの偏愛を、ありのまま綴れるって格好いい。
ああとにかく今は、月見うどんが食べたい。
という具合に最初っから私を正直なごはんワールドに導いてくれたのだけれど、ほかにも、小学校の遠足でおやつにシルベーヌを一箱持ってきた子どもが勇者になった話とか、メンチボールやカツレツなどの料理を"とって”、ビールを”やる”という表現に幼少期憧れていた話とか、小話チックなごはん話が全237ページにわたり綴られている。
そうか、と思った。食っていうのは、ただ手間ひまかけられたものが素晴らしいとか、素敵な空間ごと吟味することがリッチだとは限らなくて、人それぞれの記憶とか、偏愛とか、妙な憧れとか時代とかに結びつきながら成熟していく豊かさがあるのだ。
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ハッとしたストーリーがあった。「サンドイッチの薄さ」というコラムだ。
昭和の時代はサンドイッチが今よりもずっと薄く、具材はきゅうりだけ、ハムだけというものが多かったのだという話。それ故に、歳月が流れ、薄いサンドイッチになぜか妙に心惹かれること、数年前に機内食で出された薄いサンドイッチが抜群に美味しかったのだと綴られていた。
何の変哲もない物語の中に、自分の物語がシンクロするとうれしい。冒頭に、私はていねいなお店を取材した後、夜な夜なランチパックのたまごサンドを食べていたと書いたが、実は何でもいいからと選んだわけではなかった。この話を読んでふと思い出した。私は昔から、ランチパックのたまごサンドが大好きなのだ。
貧乏で少食だった頃、どんな心理状態でもランチパックのたまごサンドだけは心穏やかに食べることができた。胃の調子が悪くても食べやすいボリュームだったし、金額的にも、罪悪感のわかない金額だったから。
そこにある記憶は「おいしい」だけじゃなくて、安堵だったり、思い出だったりが含まれている。私だけのたまごサンドのおいしさなんだ。
そんな風に思ったら、美味しい記憶は次々に呼び起こされる。出来合いのたらこソースをかけたパスタ、具がはみ出したでっかいおにぎり、分厚く焼いたクッキー、梅干しがのった温かい素麺、具のない焼きそば。
どれもこれも、他の人はあんまり好きじゃないかもしれないけれど、私は大好きなものばかりだ。ああ、今すぐ全部食べたい。
これからは自分が喜ぶものに正直に、ごはんを愉しもう。