わたしたちは「他人とわかり合うなんて不可能」をどう受け止めるべきか
なぜこの本を購入したのか、今となっては思い出せない。だけどきっと「他人を知りたい」(理解したい/悩みたくない/うまく関わりたい/誤解されたくない/誤解したくない)という気持ちで購入したのだと思う。
だけど買ったが最後、パッと見の男くさい表紙(失礼)や「話せばわかる」はやっぱり大ウソ!という絶望的な帯などが作用して、長い期間本棚で眠らせてしまった。つまり殿堂入りの積読本だった。
だけど一度読み始めて10ページを超えたあたりから、目が離せず考えること止まずの不思議な本となったことを先にお伝えしたい。気づけば、一文字も逃さぬようにかじりついて読み込んでいた。人生で何度も読み返したい本はそう多くないが、この一冊は確実に年に一度は読み返す本となる。
まず、読後の感動と比べ、読みはじめは絶望的だった。精神と解剖学のスペシャリストが「他人とわかり合おうなんて無理だ」みたいなことを突然「はじめに」で結論づけているからだ。
この本は精神科医の名越康文さんと、解剖の第一人者である養老孟司さんの対談形式で構成されているのだが、冒頭の始まりはこれである。
なんてこったと思った。めちゃくちゃ投げやりに見えた。
「あーでもないこーでもない」話を楽しむ本だろうか。わたしにはちょっとレベルが高かったのかもしれない。
正直、本を読み進めるべきか不安になったため「次の3ページくらい読んで、つまらなかったら読むのをやめよう」と20ページくらいで思ったほどだ。
気づけば必死で文字を解釈していた
読み終わってみると、読書で得た感覚としては、初ジャンルの、よかった。
答えのない話をずっと読むのが最初は「苦手」だったのだけど、読み進め、咀嚼してわかる。「他人」とはの答えは、答えを出さないことこそに答えがひそんでいるのだと、体にじんわり溶け込むように学んだ。はじめての感覚だった。
少し話が逸れるのだけど、昔ひとりで飲むのが好きだった頃、カウンターで出会うおじさんの話を聞くのが好きだった。
特に昔、たま〜に会う、好きなおじさんがいた。たくさん言葉を尽くしたり、楽しませようとするわけじゃないし、そのときは理解できない話も多かったんだけど、一言一言が「なにやら今の自分にとって重要なんじゃないか」「のちの自分に必要な言葉を言われた気がする」という気持ちにさせる人だった。
多感だったあの頃、人に相談するスキルがなく(わたしは人に相談するというのは一種のスキルだと思っている)言葉にならない悩みと不安を常に抱えていたわたしは、たくさんの言葉や自分の経験を交えながら、若さやそれに伴う苦しみを羨ましがったり理解してくれるおじさんに安心感を覚えていた。
とにかくわたしは、質問に答えるというよりひとりでずっと喋ってくれるおじさんから、いつも何かのヒントを得ていた。すぐに解釈できるものばかりではなかったけれど、何年かかけて、おじさんの言葉は少しだけ今のわたしを作る材料となった。亡くなったと聞いたときは、心にぽっかり穴があいた。
わたしにとってこの本は、あのおじさんのようだなと思った。降り続ける言葉の中にたくさんのヒントがあり、多くの気付きをくれる。だけど決して、方向性は示してくれないのだ。それがいい。
言葉をひとつひとつ噛み締めながら、自分なりに受けて解釈すると「他人とはわかりあえない」という冒頭の言葉の意味が、冒頭で読んだときと最後まで読んだときの受け止め方が違っている。投げやりではなく、それこそが理解、という風に。
それだけ「他人とはわかりあえない」ということが、言葉で耳にするよりもっと複雑で、体の芯から「わかり合えない」ことを納得するのが難しいのだろう。今もこの文章を書きながら、読んでくれている人にこの魅力がうまく伝わる気がしない。
無知を知ること
なにかの本に「知識を得たいなら、自分が"何を知らないか”を知ることからはじめよう」と書かれていた。「わかった気になっていること」はあまりにも多い。歳をとると尚更だ。
「知らない」「わかり合えない」を真に受け止めることはきっと難しいのだ。わかり合えそうな瞬間は往々にして訪れるし、物理的距離が近いと、すべてわかったような気になってくる。
この本の効用について、結局うまく説明できない。だけどわたしの中で、確実に何かが変わった。
そういえば少し前に、洞窟の中で43年生きた「洞窟おじさん」というドラマを見たのだけど、まったく他人と関わらずに生きるなら、これくらい孤独になれってことなんだよね。