押してあげればよかった。
1歳の息子を膝に乗せてブランコに乗っていると、5歳くらいの男の子が近づいてきて「俺も乗りたい」と声をかけてきた。
オッケーちょっと待っててね、と声をかけ、息子に「順番こだから、もう終わろうね」と声をかけてブランコを止め、降りた。
その子はブランコを代わったあとも何か話しかけてきたが何を伝えたいのか理解できず、揺れるブランコの近くにいると危険なので話もそこそこにその場を離れた。
その後、別の遊具で遊んでいると、しばらくしてその男の子の声が聞こえた。
「誰かブランコ押してくれないー?」
ああ、もしかしたらさっきわたしに話しかけていたのは、遠回しに「押してほしい」と伝えようとしていたのかもしれない、と咄嗟に思った。
離れた場所にいたし、1歳の息子連れでよその子のブランコを押してあげるのはちょっと危険だよなと思い、その声に振り向かずに息子と遊び続けた。
バツの悪さもあってそちらの方向を見なかったので、その子がブランコを押してもらえたのかはわからない。
1日を終え、シャワーを浴びているとき、急に情けない気持ちが沸き出した。公園での出来事に猛烈に後悔している自分に気づいたのだ。
確認しなかったけれど、あの子は結局、ブランコを押してもらえなかったのではないか。いや、なんとなく押してもらえなかった気がしているから、たぶん押してもらえなかったのだろう。
ブランコを代わったとき、彼はわたしにブランコを押してほしいと伝えたかどうかはさておき、その気もちがあったはずだ。つまりわたしは、彼がいちばん最初にブランコを押してほしいとアピールした大人だったはずなのだ。
スルーされて傷ついたかもしれないし、傷ついてないかもしれないが、彼はどっちにしろ意思表示をもう一度した。それなのにわたしは二度目のスルーした。
そもそもどうして彼はひとりだったのだろう。どうして親や友だちといなかったのだろう。彼にとって、そのときブランコを誰かに押してもらうことは、わたしが思ったよりはるかに重要なことだったのではないか。そんなことを考えるとたまらない気もちになった。
「ちゃんと大きい声で自分の欲求を伝えられてえらいね」と言い、肩をたたく。「押してあげたいんだけど、わたしの子どもも遊ばせたいから、膝に乗せてくれるなら押してあげられるよ」と提案する。
それがシャワーを浴びながら思い浮かべた「わたしが取るべき行動の正解」だった。
そのブランコは縄でできた大きめのブランコだったから、膝に乗せてもらえれば一緒に楽しめたはずなのだ。どうしてそんなことが、その瞬間ひらめかなかったのだろう。ああ、悔しい。
子育てをするようになって、こういう後悔がとても増えた。すべての子どもが大切にされる世の中であってほしいのに、日々の出来事の中で、そういった行動ができない自分にがっかりしてしまう。
せめて決めることにする。たとえば次、ブランコを押してほしいという声が聞こえたら、まずはわたしはそちらを見よう。
と決めたあと、また反省する。それだけのことがなぜできなかったのだ。
あーあ。押してあげればよかった。