#2「"組織"と"自分"の小競り合い」
「いいことをしているんだから、もっとアピールすればいいのに」
当時パワハラ真っ最中だった私に、同僚がもったいなさそうにつぶやく。彼は「自分をアピールしないから、評価されないのだ」と続ける。
評価?なんのために?
目の前に置かれたグレープフルーツサワーのシュワシュワを見つめながら、フツフツと湧き上がってくる反発心。
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昔っから、アピールするのが苦手。話のネタとして話すのはいいけれど、こんなことしました、あんなことしましたと、自分を売り込むのが超絶苦手なのだ。
理由はただひとつ、「サムイ」から。
小さなころから、自分を冷めた目で見る"第三者の自分"がいる。彼女は私がちょっとでも"ええかっこ"をしようとしたタイミングで登場し、「あんた、めちゃくちゃサムイで」とささやく。
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教員生活では、常に"組織"と"自分"の小競り合いを続けていたように思う。もっというと、学校が喜ぶことと、子どもたちが喜ぶことの間に立たされ続けた。
例えば。掲示物や宿題の量、作文を出すか否かは「学年で統一するように」と言われる。朝の会でいわゆる童謡ではなく、J-popを取り上げたり、学級会で子どもたちにミッションを練らせて「逃走中〜小学生バージョン〜」をやったり、ちょっとでもオモロイことをすると「和を乱す」と注意される。
教科書やノートが同じなのは分かる。けれど、教師の教え方も統一するのはいかがなものか。そんなの、ロボットに教えさせるのと同じやん。
叱責を受け止めつつ、ひっそりと「オモロイこと」を続ける。評価はされない。どころか「出る杭」は打たれまくる。
それでいいやん。だって、アピールして得た評価なんて、ふっと吹けば飛ぶホコリみたいなもの。そんなもんよりも子どもたちや保護者が伝えてくれる「来年も先生がいいです」「笑顔が増えました」の言葉のほうが、めっちゃうれしい。
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フリーランスになった今。
ライターの仕事にだって、評価がつきものだ。だからつい、"何のために書くのか"を見失いそうになる。組織に属していなくたって、あの小競り合いは続く。
そうか。もしかすると"組織"は、自分のいや〜な部分を映す鏡にすぎないのかもしれないな。だとしたら、一生小競り合いを続けるしかないではないか。
「あんた、めちゃくちゃサムイで」と耳元でささやく自分。
大切にしよう。
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