書きたいことを、書く
黒柳徹子さんの「窓ぎわのトットちゃん」「続 窓ぎわのトットちゃん」を読了した。
「窓ぎわのトットちゃん」は、小学生のころ、母に勧められて一読したと記憶している。ただ、当時の私は大の本嫌い(漫画は別枠)。どうやら、目を上下させるだけでな〜んにも入っていなかったようだ(なんてこったい)。
枠からはみ出した子どもたち
小学1年生で退学となったトットちゃんが訪れたのは、「トモエ学園」。トットちゃんを含む、いわゆる「学校の枠」からはみ出した子どもたちの日常が描かれていた。
あとがきで、子どもたちのその後が紹介されているのだが、学者に社長に教育者。それぞれの才能を発揮した姿がうかがえる。
「学校」からはみ出したって、「あなたは大丈夫」「あなたならできる」と励ます人がひとりいれば、才能は開花する。いや、むしろ「型にはまらない」子どもたちこそ、可能性のかたまりなんよね。可能性の芽をつんでいるのは、「型」にはめようとする人間、社会のほう。
そんなメッセージが伝わってきた。
42年のときを経て誕生した「続編」
太平洋戦争下の話にもかかわらず、「窓ぎわのトットちゃん」はそれほど戦争色が濃くない。一方で、2023年に出版された続編には、疎開や召集令状、出征など、10歳前後のトットちゃんが体験した「戦争」が描かれていた。
泣くことを許されず、「バンザイ」と叫ぶ。特攻の青年たちは出撃の際、「お母さん」と叫んだとも聞く。本音を言えず、感情を出せず、笑顔をつくる。一部の人間がつくった「正解」を言わされる。
「なぜ、40年以上経った今、続編を出したのだろう」
あとがきに記された「徹子の部屋」のエピソードに、その回答があるように感じた。
学べば学ぶほど、この予想が現実味を帯びてきていることに気付く。一方で「そうならないように」動いている方々の存在も。
私も、その一員に加わりたい。
「思考」を奪う
ずーっと取引している企業もついに、AIライティングを導入した。
一気につまらんくなったな、が率直な感想。理由はシンプルで、考える機会が減ったから。
「考えなくていいですよ」「時間短縮になります」
まるでいいことのように言う。でも、人間から「思考」を奪ったらどうなる?
まさに、近藤先生のおっしゃる「考えない・疑問を持たない・異議を申し立てない」都合のいい人間の出来上がりではないか。
私はコマになるのは嫌だ。思考を奪おうとしてくるなら、考えて、考えて、考えまくってやりたい。笑
「おもんない」
こう思ったときの行動はひとつ。オモロイ方向にグイッと舵を切る。
書く以外の「食いぶち」
これからはますます、「儲け(評判)」と「書きたいこと」のせめぎ合いが強まるように思う。
夏目漱石も太宰治も、古今東西多くの作家がおそらく、この狭間に立たされてきたのだろう。作品にもちょいちょい「利益を優先するか、思いを優先するか」の葛藤が描かれている。そのたびに、「時代は変われど、直面する悩みは同じなんやな」と少しホッとする。
「書きたいことを、書く」
近藤先生の三行塾で聞いて以来、ずーっと考えていた。ライター職しかないと、どうしてもクライアントの利益優先になってしまう。もちろんそれも大切だが、多くのクライアントは「速くて、そこそこ」の記事を求める。書き手の思考なんぞ、必要としていないんやなぁ。
書きたいことを書くには、利益度外視でやるしかない。「あの人、ほんま懲りひんなぁ」と言われても続ける。
ライター以外の食い扶持を確保した今、迷うことはない。
おもろくて、たまに泣けて、ちょいちょいメッセージを散りばめた、
エッセイを書き始める。