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超短編 レモングラスとエルダーフラワー

僕はいつも、ひとりで食事を摂る
朝も昼も夜も
この一年 誰かと食事をしたのは 数えるほどしかない


「はい、あげる」

たまに会う友人の*さんが、チーズケーキを半分分けてくれた

「いいの?この店のチーズケーキ、君のお気に入りじゃないか」

「いいの。あなたといると、なんだか半分分けたくなっちゃうの」

僕らは数ヶ月に一回、喫茶店で会っている
僕の唯一の、誰かと食事をする時間だ


「そういうことなら、遠慮せずいただくよ。ありがとう」


普段あまり経験することのない気持ちになって、自分が頼んだモンブランを、半分彼女に渡す

「分けてくれるの?どうもありがとう」


皿に載る、きれいな断面が見えるチーズケーキとモンブラン


「なんだかこのお皿の様子、とっても素敵ね。2種類のケーキが、断面を見せて並んでいる。一人じゃこんな姿、あまり見られないじゃない?」

「そうだね。それに僕にとっては、こんな素敵な店でケーキとお茶を味わうことも、あり得ないことだ」

「ここでブラームスの間奏曲を聴くことも、一生なかったかもね」

彼女がレモングラスとジンジャーのハーブティーを飲む

頭上を繊細に流れる、ブラームスop.117-2

「なんだか、誰かとこうやって食べ物を分け合うって、すごく特別なことだと思うの。
世の中の〇〇のためって大抵、自分のためでしょ?ほんとうは自分のためなのに、あなたのためっていう仮面を被っているの。
そうじゃなきゃいけないことも、たくさんあるんでしょうけど」

彼女はハーブティーの水色を眺める

「でも、誰かと食べ物を分かち合う瞬間だけは、そうじゃないって思うの。わたしはひとりでチーズケーキを食べることよりも、半分あなたに与えることを望んだ。そこに見返りや期待はかけらもない」

彼女が自分のチーズケーキをひとくち、口に入れる

「君が僕にチーズケーキを分けてくれたとき、すごくあたたかい気持ちになったよ」

彼女がうれしそうに笑う
耳元のイヤリングが、気持ちよさそうに揺れる


「わたし、もしかしたら、そういうあたたかな気持ちになりたくて、あなたに分けたのかもしれない。ああ、結局自分のためになっちゃったわね」

笑ったと思ったら、急に難しそうな顔をして、フォークを眺めはじめた


「でも、僕のためになっているよ。じゅうぶん」

僕は最後のひとくちを食べ終える

「そうかしら。わたしのわがままになっていないといいんだけれど」

今度は哀しそうな顔


「大丈夫だよ。君と会う時間がなかったら、こんなあたたかい気持ちを味わうこともなかった」

ケーキを再び食べ始める
少し安心したような顔


「君は感情が素直に表情に出るね。見ていて飽きないよ」

「あなたはもうちょっと感情を出した方がいいと思うわ。素直に出さないと、むずかしい病気になっちゃうわよ」

僕は自分が頼んだラプサンを、カップに注ぐ


「そうかなあ」

「わたしにはわかるの。
それに、こういう感情を経験することが、わたしにもあなたにも必要だって。これから互いが、この世界で生きていくために」

僕は癖の強いラプサンを飲む


「それは少し、わかる気がするな」

カップを置く
外でスズメが数匹、何かを探し求めるかのように、飛び回っている


「こういう気持ちがたくさん積もったら、それは愛になり得るのだろうか」

「どうかしら。少なくとも今はそれになり得ないと思うわ
母親のいない子猫は、どんな大人になるのかわからない」

「先はわからないってことかな」

「そう。わからないままがいいの」

彼女が外を眺めている

これはおそらく、グールドが弾くブラームスだ
僕が擦り切れるほど聴いたアルバム
そして彼女も



ポットに浮かぶハーブの葉が、陽に照らされ美しく揺らいでいる

反対側に佇む、真珠のように儚い三日月

彼女との時間は、もうすぐ終わる

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