ぶこつでやさしいスープカレー屋さん KIBA 第1話「カレーが食べたい」約3000字/全17話/創作大賞恋愛小説部門
「私をスープカレー屋さんに連れて行って下さい!」
何故私はあんなことを言ってしまったんだろう。
まだ見慣れぬ天井に問い掛ける。
どうかしていたのだ。
きっと、彼が作ったカレーが、弱っていた私にはどうにも優し過ぎたのだ。
そして、自分が好きなものを伸び伸びと語る姿に、憧れてしまったのだ。
彼は嬉しそうに微笑んで「もちろん」と言った。牙の抜けた犬のように、人懐っこいきらきらした瞳で。
そうして私は明日デートをすることになった。今日初めて出会った男性と。
どうして? え? 本当に? この私が?
ベッドの上で体をよじりながら、ここ数時間にあった出来事を改めて私は思い返した。
ぐー……とお腹が鳴った。
私はずり落ちてくる眼鏡を押し上げ、前髪を撫で付け、うーん、と小さく唸り声を上げた。
五月の頭の日曜日の夜、私は街を彷徨い歩いていた。
ようやく日中は春らしい陽気が感じられるようになってきたが、夜はまだまだ冷える。私は上着のファスナーを一番上まで締めた。
世間はゴールデンウィークの最終日。街の中心部はとても人出が多い。観光客と思しき集団をよく見かける。それに加えて札幌は今、花見シーズン。札幌に住んでいる人々も新人歓迎会を兼ねて飲み会に繰り出したりしているのだろう。
「花火大会でもあるみたい……」
私の地元である帯広では毎年大規模な花火大会が開かれている。その時ばかりは街にたくさんの人が溢れる。しかし、それ以外の日は、基本的に人通りが多くない。
それに比べれば札幌は大都市だ。日本において東京、横浜、大阪、名古屋に次いで人口が多いのだと学校で習ったことを思い出した。
そんな札幌で一人暮らしを始めてからおよそ一ヶ月が経ったが、いまだにこの人の多さには慣れない。
私はうんざりしていた。
この一ヶ月間で、すっかり私は疲れてしまっていた。
高校まではいつだって顔見知りがいたのに、大学の同じ学科には知り合いはいなかった。
知らない場所で、知らない同期と、知らない先生の話を聞き、知らない先輩からサークルに勧誘される。押しに負けてサークルの見学に行ってみても、どこか場違いな感じがした。同じ学科の女の子から声を掛けてもらってオシャレなカフェに行った。居酒屋にも行ったし、スイーツも食べに行った。最初が肝心と思い必死にみんなについていこうとした。どうにか声のトーンを合わせようとチューニングしたが、結局ダメだった。好きな音楽の話、好きなドラマの話、好きな芸能人の話、好きなブランドの話……どれも会話に入っていけなかった。かといって、私の好きな趣味の話をする勇気もなかった。
ゴールデンウィークの間くらい一人で好きに過ごす時間を持てばよかったのだが、同じ学科の人達から花見に誘われ、断りきれずに付き合ってしまった。そうしたらそこでまた遊びに行く話になり、予定を聞かれる。予定はないので正直に答えるといつの間にか参加することになっていた。
ゴールデンウィークももう終わりに差し掛かった今日は予定がなかった。みんなみたいにかわいい服やアクセサリーを買いに行かなくちゃ。そう思ったが、さすがに疲れが溜まっていたようで、外出する気力は残っていなかった。だからもう今日は一日中部屋に引きこもっていた。だらだらとベッドの上で動画を見続けてしまった。
買い物か。みんなお金は大丈夫なのだろうか。かわいい服を買って、外食を続けて、遊びに行って。私は四月の末に親から仕送りをもらった。しかし、次の仕送りまでにお金がなくなってしまうんじゃないかとすでに不安になっている。アルバイトでも始めなきゃいけないのかもしれない。
アルバイトってどんな感じなんだろう。求人を探して、履歴書を書いて、面接して……。不採用になることもあるだろう。大変そうだな。
ゴールデンウィークが終わればまた大学が始まる。大学も、人付き合いも、アルバイトも……考えることが一杯だ。
何だか憂鬱だ。
私は夜風に身震いする。ぐー……と、またお腹が鳴った。
憂鬱だろうと体は食べ物を求めている。しかし、食欲は湧かない。食欲が湧かない、というか、何を食べていいのかがわからない。
どうしよう。
私はにぎわう夜の街で、行くあてもなくふらふらしている。
家にあったものは食べ尽くしてしまった。コンビニのお弁当は繰り返し食べるうちにあまり美味しいと感じられなくなった。何度かハンバーガー屋さんに行ったがすぐに飽きてしまった。近くに牛丼屋があったが一人で入るのは何となくためらわれた。かといってきらびやかなお店に入りたい訳でもなかった。
「お父さんの作ったカレーが食べたいな……」
実家では普段母親が料理をしていたが、カレーだけは父親が担当していた。
無骨な父が作るカレーには食材が豪快に詰め込まれ、大雑把に切られた具材がごろごろと入っていた。
一人暮らしを始めてからカレーが恋しくなりレトルトカレーを食べてみたが、形のある具材がほとんど入っていなくてびっくりした。
自分でもカレーを作ってみた。実家で使っていたルーを母親に尋ね、同じものを買ってきた。しかし何故だか父親が作ったようなカレーの味にはならなかった。
その上、作り過ぎたカレーを冷蔵庫に入れずに放置してしまった。しかも、翌日の夜は外食してしまった。更に次の日の晩に温め直して一口食べてみたが、酸っぱい変な味がしたので捨てることにした。食材を無駄にした罪悪感もあって、自炊をする自信を私はすっかり失ったのだった。
「あれ……」
気付かないうちに、知らない通りまで来てしまったようだ。
私はあたりを見回した。
特に飲食店は見当たらないか。
しかし、気になるものが目に入った。一台の軽トラックが停まっている。その軽トラックが夜でもわかるくらいに真っ黄色なのだ。あまり見掛けることのない派手な車を奇妙に思い、とぼとぼと近付いていくと、その車が停まっている駐車場に「スープカレー KIBA」と書いてあることに気が付いた。
「スープカレー……」
たしか札幌のご当地グルメだったはずだ。聞いたことはあるが、食べたことはなかった。でもカレーだ。私が食べたかったカレーだ。
そう思った瞬間、カレーのいい香りが漂っていることに気付いた。
私は香りがどこから来るのかと駐車場の隣の建物を見た。ビルの一階部分だけが板張りになっており、窓からは明かりが漏れている。建物の正面に回ってみると、木製のドアには「OPEN」と書かれた札が下がっている。ドアの上には、これまた木で作られた看板が、オレンジ色のライトで照らされていた。
私は下がってきていた眼鏡を掛け直した。
「スープカレー、きば……?」
扉の横の張り紙を見てみると「ラストオーダー二十時半」と書かれている。
スマートフォンを確認すると、時刻は二十時十八分。
もうすぐ閉店のようだ。今更入ったら迷惑だろうか。
そう考えている間にもカレーの香りが胃袋を刺激する。
私は耐え切れず、その香りをゆっくりと吸い込んだ。
ダメだ。寒い。お腹が空いた。温かいカレーが食べたい。
私は恐る恐るドアを開けた。